長女の晩婚、妹たちの結婚にひびく
ジョージ3世王女 シャーロット・オブ・グレートブリテン
ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世妃
1766~1828/在位 1806~1816
ジョージ3世は愛妾がいなかったという希有な王様で
王妃シャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの間には15人!の
お子さんが生まれました。
女の子は6人でシャーロットは3人の王子が続いた後に生まれた長女です。
初めての女の子でそりゃあすごい可愛がりようだったみたいです。
将来大陸の王族との結婚が当然視されたシャーロットの教育は最重要事項とされて
綿密なスケジュール、優秀な教師陣のもと行われました。
王の長女として、奉られ可愛がられたシャーロットなんですけど
彼女には一生ついてまわるコンプレックスがありました。
それは2歳年下の次女オーガスタ… とても美しい女性でした。
シャーロットは “ 感受性は豊かだが可愛いとは言い難い ” と言われていましたが
片やオーガスタは生まれた時から美しさで賞讃を受けていました。
シャーロットは妹たちから見れば、いつも長女風を吹かして少し横柄だったようですけど
美しい妹たちに見せる精一杯の虚勢だったのかもしれません。
容姿が問題だったのかどうかはさておき、シャーロットは(当時としては)晩婚で
31歳の時にヴュルテンベルク公フリードリヒ3世(後の王・1世)と
結婚することになりました。
フリードリヒは再婚で、最初の妻はシャーロットの従姉にあたるアウグステでした。
結婚から3年後、ナポレオン率いるフランス軍がヴュルテンベルクを占領します。
ウィーンに逃れたフリードリヒはフランスに兵士を送る代わりに
ヴュルテンベルクを王国にするという密約を結んで初代王になりました。
神聖ローマ帝国からも離脱してナポレオン傘下に入り
義父ジョージ3世とは敵同士になります。
この時シャーロットがどういう態度を示していたのかはよくわかりません。
しかしジョージ3世は婿のみならず娘のシャーロットにも激怒したようです。
ナポレオン失脚前の1813年、フリードリヒは寝返りまして
義兄ジョージ(4世)軍に参加しました。
おかげでウィーン会議にも参加できて、王座も追認してもらえました。
世渡り上手というか、節操のない人ですね…
フリードリヒ1世はウィーン会議から2年後の1816年に亡くなり
未亡人になったシャーロットはシュトゥットガルトのルートウィヒスブルク宮殿で
余生を送りました。
子供がいないのでイングランドに帰ってもよかったんじゃないかと思うんだけどね。
亡くなる1年前に水腫の手術で一度英国に帰っていますが、またドイツに戻っています。
シャーロットが晩婚だったこと & 父ジョージ3世の頑固さのせいで
後に控える5人の王女たちがとばっちりをうけています。
そのとばっちりとは… つづく
(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
地震について
昨夜やっと仙台にいる友人と連絡がとれてほっとしました。
ご家族・友人・知人とまだ連絡がとれていない方々が
一刻も早くご連絡がとれますようお祈り申し上げます。
我が身を顧みず原発の修復作業をされている方々、くれぐれもお気をつけ下さい。
余震が続く他国で活動して下さっている海外の支援部隊の方々
本当にありがとうございます。
そしてなにより被災された皆様、心よりお見舞い申し上げます。
私などができることはわずかですが、無事に生活を送れている国民の一人として
少しでもお力になれればと思います。
ジョージ3世王女 シャーロット・オブ・グレートブリテン
ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世妃
1766~1828/在位 1806~1816
ジョージ3世は愛妾がいなかったという希有な王様で
王妃シャーロット・オブ・メクレンブルク=ストレリッツの間には15人!の
お子さんが生まれました。
女の子は6人でシャーロットは3人の王子が続いた後に生まれた長女です。
初めての女の子でそりゃあすごい可愛がりようだったみたいです。
将来大陸の王族との結婚が当然視されたシャーロットの教育は最重要事項とされて
綿密なスケジュール、優秀な教師陣のもと行われました。
王の長女として、奉られ可愛がられたシャーロットなんですけど
彼女には一生ついてまわるコンプレックスがありました。
それは2歳年下の次女オーガスタ… とても美しい女性でした。
シャーロットは “ 感受性は豊かだが可愛いとは言い難い ” と言われていましたが
片やオーガスタは生まれた時から美しさで賞讃を受けていました。
シャーロットは妹たちから見れば、いつも長女風を吹かして少し横柄だったようですけど
美しい妹たちに見せる精一杯の虚勢だったのかもしれません。
容姿が問題だったのかどうかはさておき、シャーロットは(当時としては)晩婚で
31歳の時にヴュルテンベルク公フリードリヒ3世(後の王・1世)と
結婚することになりました。
フリードリヒは再婚で、最初の妻はシャーロットの従姉にあたるアウグステでした。
結婚から3年後、ナポレオン率いるフランス軍がヴュルテンベルクを占領します。
ウィーンに逃れたフリードリヒはフランスに兵士を送る代わりに
ヴュルテンベルクを王国にするという密約を結んで初代王になりました。
神聖ローマ帝国からも離脱してナポレオン傘下に入り
義父ジョージ3世とは敵同士になります。
この時シャーロットがどういう態度を示していたのかはよくわかりません。
しかしジョージ3世は婿のみならず娘のシャーロットにも激怒したようです。
ナポレオン失脚前の1813年、フリードリヒは寝返りまして
義兄ジョージ(4世)軍に参加しました。
おかげでウィーン会議にも参加できて、王座も追認してもらえました。
世渡り上手というか、節操のない人ですね…
フリードリヒ1世はウィーン会議から2年後の1816年に亡くなり
未亡人になったシャーロットはシュトゥットガルトのルートウィヒスブルク宮殿で
余生を送りました。
子供がいないのでイングランドに帰ってもよかったんじゃないかと思うんだけどね。
亡くなる1年前に水腫の手術で一度英国に帰っていますが、またドイツに戻っています。
シャーロットが晩婚だったこと & 父ジョージ3世の頑固さのせいで
後に控える5人の王女たちがとばっちりをうけています。
そのとばっちりとは… つづく
(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
地震について
昨夜やっと仙台にいる友人と連絡がとれてほっとしました。
ご家族・友人・知人とまだ連絡がとれていない方々が
一刻も早くご連絡がとれますようお祈り申し上げます。
我が身を顧みず原発の修復作業をされている方々、くれぐれもお気をつけ下さい。
余震が続く他国で活動して下さっている海外の支援部隊の方々
本当にありがとうございます。
そしてなにより被災された皆様、心よりお見舞い申し上げます。
私などができることはわずかですが、無事に生活を送れている国民の一人として
少しでもお力になれればと思います。
いいですね! 紛らわしい名前一覧。
私は一応歴史人名事典を1冊持っているのですが、あいうえお順でちょっと見づらいです。
その資料は図書館とか本屋さんで手に入るのでしょうか?
イギリスもハノーヴァー家以降、貴族の名をフリードリヒにすりゃいいのかフレデリックにすればいいのか迷いがちです…とりあえずどちらの国の称号かで書き分けています
困ります><(笑
フリードリッヒ1世の子供がフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世だっけ?
逆だっけ?
息子の世界史の資料集に紛らわしい名前の一覧があるのを知ったときには
ホントうれしかったです^^;
まるで高校生の試験前日みたい><(笑