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フランス王ルイ14世妃 フランソワーズ

2009-03-31 00:22:11 | フランス王妃・王女
享楽王を変えた無冠の王妃
ルイ14世妃 マントノン侯爵 フランソワーズ・ドービニエ


1635~1719/在位せず

もとは愛妾で結婚も極秘に挙げられ、王妃という称号は得られませんでした。
けれども宮廷では妻として振る舞い、時の宰相は王妃として彼女に接していました。

フランソワーズの父コンスタンは貴族ですがユグノーで宰相リシュリューに反旗を掲げたため
一家は1629年からニオールに軟禁されていました。
フランソワーズもその地で生まれています。

    

母ジャンヌは大変信心深く、フランソワーズの敬虔さにも影響していると思いますが
これが…かなりこみいってまして、信心一つとっても大変な時代だったようです。

ユグノーというのは宗教改革派でプロテスタントです。
父方の祖父アグリッパは詩人、プロテスタントの総長で、アンリ4世の親友でした。
しかし母ジャンヌならびに彼女の親族は熱心なカトリックでした。
ジャンヌは後妻ですが、なぜふたりが結婚したかは謎です。

フランソワーズはまず母親によってカトリックの洗礼を受けさせられています。
1639年に軟禁が解かれマルティニークに移り住むとプロテスタントで教育されました。
1647年、フランスへ帰国して父親が亡くなと最愛の伯母で
熱烈なプロテスタント信者ヴィレット夫人に預けられ新教の学校に行かされます。
しかし名づけ親である熱烈なカソリック信者ロシュフーコーに知られると
カトリックの学校に変えられます。(伯母と名づけ親ってどちらが強いんですか?)

いったいどうしろっていうんじゃい って感じですよね。
どちらを信じたらいいのか子供なら戸惑ってしまいそうです。
フランソワーズも転校は嫌だったようですが、新しい学校で出会った
シスター・セレストを敬愛するようになり、
「言葉では言えないほど愛している、彼女のためなら犠牲になってもいい」
などと言いだします。 子供の信心なんてそんなもの。
いずれにしてもフランソワーズは信心深い女性になりました。

年頃になり社交界に紹介されたフランソワーズはポール・スカロンに出会います。
ふたりは意気投合したようでしたが、彼は25歳年上で酷いリューマチ持ちでした。
誰もがまさか!と思いましたが、フランソワーズは16歳の時に最初の結婚をして
スカロン夫人になりました。
なんでもスカロンは持参金なしでいいと求婚したそうです。
また、作家であるスカロンのサロンには王侯貴族なども集っていたので
華やかな社交界に少し憧れを抱いたのかもしれません。

            
               若い頃のマントノン夫人です

その後9年間、フランソワーズはスカロンの妻、看護婦、サロンの女主人として尽くし
スカロンを看取りました。

スカロンの死後もパトロンであったルイ13世妃アンヌはフランソワーズに
年金を与え続けますが、彼女が亡くなると息子ルイ14世は年金を停止します。

一時は侍女となってリスボンに向かおうとしたフランソワーズの窮状を救ったのは
ルイ14世の新しい愛妾モンテスパン候夫人でした。
王を説き伏せてフランソワーズの年金を復活させた彼女は
その後自分の子供の養育係にフランソワーズをとりたてました。
(王の好みじゃないと思ったんだって!ところがそうはいかないの)

フランソワーズは献身的に子供たちを世話しました。
その優しさと働きぶりに感動したルイ14世は(下心もあって)
1678年に彼女にマントノン侯爵の称号と城を与えました。
さすがのルイ14世も年をとったのか、落ち着いた恋愛がしたかったのかもしれません。
フランソワーズに愛妾になるようせまりましたが、彼女は宗教を盾に拒み続けます。

けれど王はあきらめません。戦術を変えます。
時間があれば彼女を訪ねて政治や経済について議論を交わすようになりました。
この間のモンテスパン夫人の嫉妬はすごかったそうです。

フランソワーズがとうとう熱意に負けて愛妾になったのは1680年です。
モンテスパン夫人は宮廷を去り、ないがしろにされてきた王妃マリー・テレーズ
今までにないほど手厚く扱われ、フランソワーズに看取られて亡くなりました。

王はすっかり敬虔で質素な人柄になり、ヴェルサイユは様変わりします。
結婚は1685年頃と言われています。

結婚後も王に信頼され政治を助け、良家の貧しい少女たちのために
サン・シール女学校を創設しました。

1715年に王が亡くなると女学校に隠退し4年後に亡くなりましたが
王と同じ墓所には葬られませんでした。

(参考文献 エレノア・ハーマン『王たちのセックス』 Wikipedia英語版
      SONY世界遺産スペシャル)

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2 コメント

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ダロワイヨとルイ14世 (andy11102002)
2009-04-25 14:08:49
こんちー!
ダロワイヨとルイ14世のかかわりをブログに載せました。良かったら読んでみて・・ねっ!!
返信する
最終的な勝ち組?マントノン夫人 (メリエンダ)
2018-10-24 22:16:12
マントノン夫人は、ルイ14世と貴賤結婚をした女性で、ルイ14世の愛、信頼を最期 まで勝ち得た女性。私的には、マントノン夫人は最終的な勝者ではないか、と思ってます。
夫人は、幼少期、若い頃は、苦労の多かったみたいですね。行き場を無くしていたところ、なんと、あのモンテスパン夫人に子供達の世話係に‥と拾い上げられたのですが、マントノン夫人(当時はスカロン夫人)は自分や王よりも年上の年増だし、地味で、信心深く、外見も大人しげで、器量好みで、色好みな王のタイプとは真逆のタイプだったのがモンテスパン夫人に気に入られたらしいですね。確かに、マントノン夫人は、モンテスパン夫人の子供達を慈しみ、母代りとなり、子供達も実母よりもなついていたらしいですね。なんでも、モンテスパン夫人は、権勢、贅沢には関心高かったけれど、子供達にはあまり関心を払っていなかったみたいですね、子供の一人が、生死を彷徨う程の病に苦しんでいた際も、モンテスパン夫人は、賭け事に熱中していて、お子様が大変です!と召使が言いに来た時、モンテスパン夫人は、邪魔をされて、不機嫌そうに眉をひそめ、スカロン夫人に一任させているのだから、大丈夫、今大事なところだから、邪魔をするな、と言い捨てた、とされていますが、本当でしょうかね?お子さんは、なんとか窮地を脱したものの、後遺症が残り、母の酷薄さを聞かされ、母を恨むようになった、とされていますが‥対して、徹夜で献身的に看病したスカロン夫人をより一層慕うようになり、ルイも、モンテスパン夫人の酷薄さに幻滅し始め、スカロン夫人の母性的で、献身的な姿に少しずつ惹かれていったみたいですね。
ルイは、マントノン夫人の影響を徐々に受けるようになり、これ迄の自堕落な生活を正すようになり、王妃亡き後は、マントノン夫人と貴賤結婚し、晩年は、若い頃と打って変わった生活を送るようになったらしいですが、やはり、年を経ると、人間、穏やかに残りの人生を送りたい、と思うのでしょうか?
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