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神聖ローマ皇帝レオポルト1世皇女 マリア・エリーザベト

2011-05-15 00:11:16 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
女性誌の取材に向いてそうな皇女
レオポルト1世皇女 マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ


1689~1743

レオポルト1世と二人目の妃クラウディア・フェリチータスの間には
三女、四女にあたる皇女が生まれていますが、二人ともすぐに亡くなりました。

レオポルト1世と三人目の妃エレオノーレ・マグダレーネには三男七女が生まれています。
五女クリスティーナは生まれて数ヶ月で亡くなりました。
マリア・エリーザベトは六女になります。

             

マリア・エリーザベトは、皇女たちの中でお母様の血を一番引き継いでいたのか
ラテン語・ドイツ語・フランス語・イタリア語をこなす、知的な女性だったそうです。

ハプスブルク家の皇女でありながら未婚です。
これが頭脳明晰なマリア・エリーザベト自身の判断なのか
レオポルト1世の政略結婚を含めた政治力の無さなのかはっきりしませんけど
たぶん縁談はたくさん持ち込まれたと思うのよね…

45歳の時に弟の神聖ローマ皇帝カール6世からネーデルラント総督に任命されました。

パワフルで牽引力があるマリア・エリーザベトは
ネーデルラントでは人気があったようです。
でも、実家ハプスブルク家よりもネーデルラントのことを考えて行う
独立思考の政治はウィーンでは評価されませんでした。
親会社の言いなりにならず業績を上げる子会社っていう感じかしら? 男らしいですね!

大金を投じて芸術と音楽が溢れる最高の宮殿づくりに精を出し
作曲家のパトロンにもなりました。

当時のプリンセスとしては珍しい “ 自分の道を進んだ女性 ” という感じですね。
自己啓発型の女性誌があったら、ぜったい取材を受けてそうなタイプです。

1741年に突然モランヴェル(ベルギー)で亡くなりました。
ブリュッセルに葬られましたが、8年後ウィーンのカプツィーナ皇帝廟に移されました。



              
失恋の痛手から立ち直れなかった皇女
レオポルト1世皇女 マリア・マグダレーナ・フォン・エスターライヒ


1689~1743

レオポルト1世の七女マリア・アンナはポルトガル王ジョアン5世妃になりました。
八女マリア・テレジアは9歳、九女マリア・ヨーゼファは16歳で亡くなりました。
マリア・マグダレーナは十女になります。
十一女マリア・マルガレーテも1歳で亡くなっています。

         

1708年にマリア・アンナがジョアン5世と結婚した時、両王家はさらに関係を強くしようと
マリア・マグダレーナとジョアン5世の弟ベージャ公フランシスコの結婚交渉に入りました。
けれども交渉は早々に決裂して二人の結婚話はなくなりました。

マリア・マグダレーナは縁談がなくなった後、引きこもり生活に入ってしまいました。
親しくしたのは姪のマリア・テレジアと姉のマリア・アンナぐらいで
世間とは没交渉の日々を送りました。

54歳の時、急性肺炎で亡くなりました。

こんな時、女帝マリア・テレジアなら打ちひしがれている娘だって
有無を言わさず嫁に行かせて、逆療法になったりしたかもしれませんけど
レオポルト1世は引き蘢らしたままだったみたいね

ちなみに、ベージャ公は生涯未婚で51歳の時に亡くなってますが
マリアナ・シルヴァイラという女性の間に二人の庶子がいたようです。
この女性のことはわからないんですが、もしかして、この人と結婚したかったのかしら?

(参考文献 Wikipedia英語版)

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