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この山茶花は万福寺で一番古い山茶花です。
百数十年前に植えられたと考えられます。
慶滋保胤(よししげのやすだね)が寛和年中頃(985)書きまとめた『日本往生極楽記』の中の在家の男子往生者4名の中に伊予の国の住人「越智益躬」(おちのますみ)の往生の事が収載されています。他の3名は何れも都の公卿、高階真人(たかしなのまびと)、藤原義孝(ふじわらのよしたか)、源憩(みなもとのいこう)ですが越智益躬のみが地方人で収録されているのです。このことは重要な意味を持っていることだと考えております。随分後世に編述されている数種の越智氏系図や河野氏系図の記述とは全く違う人物像であることに十分留意せねばならないことです。
往生記の越智益躬(おちのますみ)の記述を紹介しておきます。
(36)伊予国越智郡の土人(住民)越智益躬は、当州の主簿(しゅぼ、国庁に使える4等官)たり。少(わか)きときより老にいたるまで、勤王して倦(う)まず。法に帰することいよいよ劇(いそがわ)し。朝(あした)に法花を読み、昼は国務に従い、夜は弥陀を念じて、もて恒(つね)のこととなせり。いまだ鬢髪(びんぱつ)剃らずして、早く十戒を受けて、法名を定真(じょうしん)といえり。臨終に身苦痛なく、心迷乱(めいらん)せず、定印(じょういん)を結び西に向いて、念仏して気止みぬ。時に村里の人、音楽あるを聞きて、歎美せずということなし。
原文は漢文で述べられています。延べ書きは『日本思想体系』(岩波書店刊)を参考にいたしました。
この越智益躬の厚い仏教信仰の記述はそれより後に編集されている『法華験記』や『今昔物語』などにも見られます。これらは越智系図の益躬の記述とは全く違っています。
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赤いさざんか
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白いさざんか