万福寺 大三島のつれづれ

瀬戸内・大三島 万福寺の日記です。
大三島の自然の移ろいと日々の島での生活を綴ります。

永観堂再訪

2012年12月07日 | Weblog
                            
                            永観堂の多宝塔

 翌朝、6日は今回の目的であります、浄土宗西山禅林寺派本山永観堂へ参詣に駅前を8時過ぎに発ちました。

 永観堂は紅葉の名所でもあります。遅散りの紅葉がまだ所々にあって愛でることもできました。着いた時はまだ受付開始前で法

務員、職員総出で落ち葉掃きの最中でした。

 中西管長さんがお迎え下さり、「ようこそ来られました、昨日まで国宝の〈山越の弥陀〉の展覧をしていました。今日取り外す

作業をしますので、先ず展示室の方へお入り下さい」とのこと、思いがけないめぐり会いに一同感嘆いたしたことです。「山越の

弥陀」画像は永観堂所蔵の法物なのですが管理上から現在は東京国立博物館に移管されているとのこと本当に思いがけない眼福で

した。当寺所蔵の仏画十数点も同時展覧されていました。一昨年訪れた時には長谷川等伯の「波濤図」の展覧中であって喜んだこ

とでありましたが、今回もまた喜びををいただいたことです。私のこれからの人生で二度と拝見は叶わぬものばかりなのです。


            

        講話下さる中西玄禮管長     管長さんと記念写真 

9時より永観堂の講義室で中西管長さんの講話を約90分拝聴いたしました。中西管長さんは龍谷大学在学中はサークル宗教教

育部でご活躍、童話の名手であられました。それだけに聞く側の立場に立って常に分かり易くお話を進めて下さいました。

 以下、ご講話の要旨を記しておきます。

 禅林寺(永観堂)の草創は弘法大師の高弟真紹によって藤原関雄の別荘を真言宗の寺、禅林寺を建立したことが始まりであると

のこと、浄土宗の寺に多宝塔や両界曼荼羅図があるのはそのようなことに依っているのでしょう。この寺が浄土系の寺となって今

日に伝わった縁由は歴史上お二人の師僧のお念仏信仰によっていることをお話になられました。

 第1の方は禅林寺第7代永観律師(ようかんりっし)、永観律師は三論、法相(ほっそう)を修学された方で東大寺の別当職に

就かれた方でもありますが、身体が虚弱な方でそのようなことからか浄土信仰に身を置かれるようになられたのであろうとお話に

なられました。縁あって禅林寺に住持されるようになった時に境内東南に阿弥陀堂(常行三昧を修する堂)を建てられて念仏行を

励まれ、その念仏行中に阿弥陀如来のお姿に遇われ、あまりの事に永観はそこに蹲って合掌念仏しておると阿弥陀様はお顔を左後

ろを向かれて「永観!遅し」と申されたのだと伝わっているのです。その時の阿弥陀様のお姿を刻んで伝えているのが当山のご本

尊「見返りの弥陀尊像」であるとのことです。

 また、この寺が法然上人のお説き下さった浄土宗の寺になったのは高倉天皇の御代にこの寺の住持となった静遍(じょうへん)

師が法然上人の著「選択本願念仏集」(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)を5回精読して念仏者となられたことにより、以来

浄土宗西山派の證空(しょうくう)上人の流れの本山となって現在に至っていることをお話になられました。

 初めてお聞きすることが多々あって新たな認識をさせていただいたことです。

 最後に浄土真宗の「正信偈」にも見られる「大悲無倦常照我」(だいひむけじょうしょうが)の心を次のように誰にでも分かり

易いお話をされて結語とされました。

  ◎あきず あせらず あきらめず

  ◎まゆみの法則
   まつこと
    ゆるすこと
     みとめること

 心にジーと余韻の残るご講話でした。あとゆっくりと禅林寺堂宇を巡拝させていただき、盛んに落葉を進める永観堂を後にした

ことです。

     

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