日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

佐野眞一著「枢密院議長の日記」を読んで

2007-10-30 11:11:31 | 読書

新聞でこの本の広告を見た。何だか凄そうな本なので高いかなと思ったのに、値段はただの950円、9の前の数字が落ちているのではないかとよく見たが間違いではない。「講談社現代新書」であることに気づいて納得した。

この日記を書いたのは倉富勇三郎という人物である。

《ペリーが浦賀に来航した嘉永六(1853)年、久留米藩の漢学者の家に生まれ、明治、大正、昭和の時代を生きて、戦後の昭和二十三(1948)年に数え年九十六年の生涯を閉じた》
《東大法学部の前身の司法省法学校速成科を卒業後、東京控訴院検事長、朝鮮総督府司法部長官、貴族院勅撰議員、帝室会計審査局長官、宗秩寮総裁事務取扱、李王世子顧問、枢密院議長などの要職を歴任》という方らしい。

枢密院議長といえば初代の伊藤博文とか山県有朋などの名前は知っていたが、倉富勇三郎という名前は歴史好きの私ではあるが知らなかった。倉富の宮中序列の最高位は、昭和天皇即位の大礼の際に、大勲位東郷平八郎、大勲位西園寺公望、内閣総理大臣田中義一に続いて第四位であったというから、位人臣を極めたと云える。

この倉富の日記が国会図書館の憲政資料室に所蔵されており、《日記の巻数は小型の手帳、大学ノート、便箋、半紙など二百九十七冊を数え、執筆期間は大正八年一月一日から昭和十九年十二月三十一日まで、二十六年におよぶ。》とのこと。

《一日あたりの執筆量は、多いときには四百字詰め原稿用紙にして五十枚を超えるときもある。まずは世界最大最長級の日記といってもいいだろう。》というのである。そのうえペン書きの文字は、まるでミミズがのたくっているようで、ほとんど判読不能なのである。

佐野眞一氏は他のスタッフともども、七年間の歳月をかけて大正十年と十一年を中心とした約二年分の日記と、大正十二年の虎ノ門事件や昭和七年の五・一五事件前後の日記を解読し、そのなかから興味をひいた事柄にまつわる数々のゴシップを紹介している。まさに私の大好きな話なので、あっという間に読み上げた。

著者の労苦を思うと、面白そうな話を私がつまみ食いをしてここに紹介するのは気に引けるので、二点だけに止める。

一つは、昔の皇族・華族というものはとんでもない『金食い虫』だったのだな、ということである。随所にそのような話が出て来る。宗秩寮というのは皇族、王、公族、爵位、華族、朝鮮貴族、有位者に関することなどを扱う部署なので、自ずと情報が集まったのである。今日の朝刊の週刊誌広告に《「皇室はストレスの塊」発言の衝撃 三笠宮寛仁親王 「朝起きて朝食を食べ、昼食を食べ、夕食を食べ・・・。365日くり返す。それが皇室に生まれたもののつとめだよ」》とある見出しとなかみだダブってきた。

もう一つは次の記述。
《倉富が金銭に恬淡とした性格だったことは、大審院以来の友人で、柳田国男の養父となった柳田直平も認めている。昭和三年十一月二日の日記に書かれた倉富との雑談で、柳田はこんなことを言っている。
<柳田「或る人が『栄達して金銭に淡泊なる人は少し。維新後にては大久保利通、伊藤博文と君(倉富)との三人なり』と云い居りたり。大久保は死後負債ありたりとのことなり。伊藤は貯蓄はなさざりしも、彼の如く贅沢を為したる故、真に金銭に淡泊なりとは云い難し」>》

二世三世の国会議員に聞かせてやりたいものである。