日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

企業からやって来た研究生

2007-10-18 22:01:34 | 学問・教育・研究
かれこれ半世紀前、私が院生だった頃の話である。ある日研究室に研究生が入ってきた。その頃としては珍しく酵素の工業的利用に取り組んでいる地元の中堅会社からの派遣であった。ある酵素を精製してその性質を調べ、また反応機構を明らかにするのが目的であったと思う。研究生といっても年格好は40歳代の、それも後半ではなかっただろうか、私にとっては立派なおじさんであった。

このおじさん、KKさんと呼ぶが、が来て大異変が起こった。朝、研究室に足を踏み入れるとなにかが違う。板張りの床が綺麗に掃き清められていたのである。それだけではない、セミナー室と呼んでいた大部屋の真ん中に据えられた大テーブルの上も、ふだんならごろごろ転がっている飲んだ後の、また煙草の吸い殻を突っ込んだままの湯飲みなどが見あたらない。みな綺麗に洗われて納まるところに収められていた。朝7時台に研究室にやってくるKKさんの仕業であった。

私たちは夜が遅い分、朝も来るのが遅い。綺麗に片付けられた部屋に入ると、もうKKさんは仕事を始めている。これがくり返されているうちに、なんだか落ち着かない気分になってきた。人生の大先輩に掃除などをして貰うのが気がかりになって、どうも落ち着かないのである。止めて欲しいというわけにもいかず、結局私たち若い者が相談して当番制みたいなことにして誰かが早く来ては掃除するようになった。濡れ新聞をちぎって床にまき箒で集める。人によっては薬缶から直に水を撒いたりした。

工場での作業衣を着たKKさんの働きぶりには無駄が見えないというか、研究室にいる間は息抜きをすることなく絶えず体を動かしている。予定をこなすとさっと工場に帰る、そのような勤勉で効率的な仕事ぶりがとても印象的だった。この精勤ぶりを私たちは真似をしようとはせずに、やっぱり会社勤めは大変、これでは研究室から離れるわけにはいかないなと思ったものである。KKさんが研究室で過ごした期間がどれぐらいであったものか、私の記憶は定かでない。研究の完成にかなりに日時を費やされたように思うが、いずれにせよ目出度く論文博士が誕生した。

今でも大学に研究生制度は生きているのだろうか。なかなか融通の利く制度であったと思う。受け入れ側さえうんと云えば、それなりの授業料は払わないといけないが、大学院のややこしい入学試験を受けなくても研究室に所属出来て、一定の条件を満たせば博士号の取得が可能であった。KKさんが研究室に来るに当たって、企業側が酵素精製の技術の習得を期待したのか、それともそれまでの貢献に学位をとらせようとしたのか、その経緯は知らないが、外部に対して開かれた大学として大いに機能した制度であったと思う。

地方自治体のとある研究所からの研究生もいた。私と同い年ということもあって、後に彼の結婚披露宴で私が司会を勤めるほど親しくなったKSさんは、なかなかユニークな途を歩んだ。学位を得た後に米国に留学したが、帰国後は大手化学繊維メーカーの研究所に移り、日本におけるインターフェロン研究の牽引車となり、その医薬品化に大きく貢献した。そして、為すべきことを成し遂げては、はやばやと天国に旅立ってしまった。

製造会社に就職して会社に慣れ親しんでから、再び研究生として舞い戻ってきた先輩卒業生もいた。会社から女子薬科大学卒の才媛を研究補助員(身分上は研究生?)としてつけて貰ってである。もちろん他の大学からも院生のままか研究生としてやって来た人も数々おり、私たちは居ながらにして大学外からの人々との交流が生まれ、いろいろと得るところが多かった。恩師OK先生の当然と考えておられた門戸開放主義によるものであったのだと思う。

KKさんが学位を受けて数年後にその息子さんが卒業実験で研究室に入ってきた。確か修士課程を終えて大手の薬品会社に就職したと思う。会社が大きすぎたせいかどうか、その後博士の学位のために派遣されて・・・という話は耳に入ってこなかった。