私は沖縄のことをほとんど知らない。北海道のことを知らないのと同じ程度だが、北海道は何遍も訪れているのに対して、沖縄はまだ訪れたことすらない。何となくためらうものがあるが、その正体ははっきりしない。多分沖縄に向かい合う自分の視点が定まっていないからだろう。ところがその沖縄にある人物を介してかぼそいつながりが出来ているのである。
戦場となることが必至であった沖縄へ、最後の官選知事として昭和20(1945)年1月赴任した島田叡(あきら)氏が、奇しくも私の母校である兵庫県立兵庫高等学校の先輩にあたる。島田氏はその前身である第二神戸中学校を大正8年に卒業され、その後第三高等学校、東京帝国大学法学部政治科を卒業、官界に入られた。
昭和39年に島田氏の追悼録「沖縄の島守島田叡」が母校兵庫高校から刊行され、それをたまたま私が古書店で手にしてこのような因縁を知ったのである。その巻頭に私が在校の時は教頭でおられた校長姉崎岩蔵先生が「母校から」の一文を寄せておられる。。
巻頭言によると、その2年ほど前に《三高時代島田さんの一年後輩で、同じ野球部の選手であった評論家の中野好夫氏が「最後の沖縄県知事島田叡」の冊子を刊行》され、これが切っ掛けとなって島田氏の顕彰事業が始まったとのことである。島田氏は大正4年朝日新聞社主催の第一回野球大会に二中が兵庫県代表として出場した頃の名選手だったのである。さらにこのような一節がある。
《本校は創立已に五十八年を迎えたが、開校以来質素剛健自重自治の校訓のもとに新興都市神戸としては特異な校風が培われた。その上楠公の墓畔に近い学校として当時その影響も大きかったことが考えられる。時代は変わったにしても、本校の伝統である正義感といかなる難局に処しても曲げ得ない理性的判断と強靱さは今なお卒業生の性格を形成しているかの如く見える。》
この強調の部分はまさしく私のバックボーンでもあるが、島田氏はそのさきがけであったのだ。中野好夫氏の文によると島田氏の前任知事や県首脳の一部の行動にいろいろと問題があり、前の知事が沖縄を捨てて逃げ出したと沖縄県人が見ていたそうである。そのような状況下で持っていくトランクに出来るだけの家庭薬と拳銃、青酸カリなどを用意し、1月31日に福岡から軍用機で現地に島田氏は単身赴任した。亡くなった日は定かでないが、軍司令官自決の時は民政長官もまた自決すべきであると島田氏が口にされていたことから、それは6月22日、牛島司令官自刃の日からほど遠くない頃で、26日に姿を見せたのが最後であったとの話が伝わっている。わずか5ヶ月の任期であった。
赴任後は住民の食糧確保に二月下旬に交通さえ途絶えがちな台湾に自ら台湾米確保の交渉に当たり、交渉は成立したものの遂に現物は届かなかったとのことである。また島田氏の二中先輩として面目躍如だと思われるのは、二月下旬、米軍来攻の見通しがほとんど決定的だということになると、警察部長を呼んでもう風紀取締はしなくてもよいと指示をしたそうである。非常時のゆえをもって禁じられていた村芝居の復活を狙ってのことだったらしい。また酒や煙草の増配をさせたという話も残っている。
島田氏は最後の沖縄軍司令官牛島中将とは上海の領事時代から肝胆相照らす仲であったとかで、それが本土防衛最前線であった沖縄の民政をまかせる知事として氏に白羽の矢の立った伏線だったのだろうか。もし住民が集団自決を軍により強制されたなどの話を島田先輩が仮に耳にしたら、即刻軍に掛け合い、このような将校を罷免させたことであろうと私は思いたい。
この追悼録で私は島田先輩の記念碑が母校に建てられたのを知っていた。10月3日と10日に沖縄戦についての記事を書いたのがきっかけで、以前から気になっていたこの記念碑を自分の目で確かめたくなり、今日何十年ぶりかで母校を訪れた。その碑は正門を入ってすぐ右手の植え込みにあった。
追悼録の写真に見る場所とは大きく変わっている。その後全面的に校舎が改築されて移転したのであろう。後に見える横幕に「2008年、兵庫高校は創立100周年を迎えます。武陽会」と書かれていた。
昭和39年頃の碑
詩人竹中郁氏による銘文
校庭のはずれにはその下でよく弁当の立ち食いをしたユーカリがそそりたっていた。島田先輩も同じようなことをしていたはずである。
戦場となることが必至であった沖縄へ、最後の官選知事として昭和20(1945)年1月赴任した島田叡(あきら)氏が、奇しくも私の母校である兵庫県立兵庫高等学校の先輩にあたる。島田氏はその前身である第二神戸中学校を大正8年に卒業され、その後第三高等学校、東京帝国大学法学部政治科を卒業、官界に入られた。
昭和39年に島田氏の追悼録「沖縄の島守島田叡」が母校兵庫高校から刊行され、それをたまたま私が古書店で手にしてこのような因縁を知ったのである。その巻頭に私が在校の時は教頭でおられた校長姉崎岩蔵先生が「母校から」の一文を寄せておられる。。
巻頭言によると、その2年ほど前に《三高時代島田さんの一年後輩で、同じ野球部の選手であった評論家の中野好夫氏が「最後の沖縄県知事島田叡」の冊子を刊行》され、これが切っ掛けとなって島田氏の顕彰事業が始まったとのことである。島田氏は大正4年朝日新聞社主催の第一回野球大会に二中が兵庫県代表として出場した頃の名選手だったのである。さらにこのような一節がある。
《本校は創立已に五十八年を迎えたが、開校以来質素剛健自重自治の校訓のもとに新興都市神戸としては特異な校風が培われた。その上楠公の墓畔に近い学校として当時その影響も大きかったことが考えられる。時代は変わったにしても、本校の伝統である正義感といかなる難局に処しても曲げ得ない理性的判断と強靱さは今なお卒業生の性格を形成しているかの如く見える。》
この強調の部分はまさしく私のバックボーンでもあるが、島田氏はそのさきがけであったのだ。中野好夫氏の文によると島田氏の前任知事や県首脳の一部の行動にいろいろと問題があり、前の知事が沖縄を捨てて逃げ出したと沖縄県人が見ていたそうである。そのような状況下で持っていくトランクに出来るだけの家庭薬と拳銃、青酸カリなどを用意し、1月31日に福岡から軍用機で現地に島田氏は単身赴任した。亡くなった日は定かでないが、軍司令官自決の時は民政長官もまた自決すべきであると島田氏が口にされていたことから、それは6月22日、牛島司令官自刃の日からほど遠くない頃で、26日に姿を見せたのが最後であったとの話が伝わっている。わずか5ヶ月の任期であった。
赴任後は住民の食糧確保に二月下旬に交通さえ途絶えがちな台湾に自ら台湾米確保の交渉に当たり、交渉は成立したものの遂に現物は届かなかったとのことである。また島田氏の二中先輩として面目躍如だと思われるのは、二月下旬、米軍来攻の見通しがほとんど決定的だということになると、警察部長を呼んでもう風紀取締はしなくてもよいと指示をしたそうである。非常時のゆえをもって禁じられていた村芝居の復活を狙ってのことだったらしい。また酒や煙草の増配をさせたという話も残っている。
島田氏は最後の沖縄軍司令官牛島中将とは上海の領事時代から肝胆相照らす仲であったとかで、それが本土防衛最前線であった沖縄の民政をまかせる知事として氏に白羽の矢の立った伏線だったのだろうか。もし住民が集団自決を軍により強制されたなどの話を島田先輩が仮に耳にしたら、即刻軍に掛け合い、このような将校を罷免させたことであろうと私は思いたい。
この追悼録で私は島田先輩の記念碑が母校に建てられたのを知っていた。10月3日と10日に沖縄戦についての記事を書いたのがきっかけで、以前から気になっていたこの記念碑を自分の目で確かめたくなり、今日何十年ぶりかで母校を訪れた。その碑は正門を入ってすぐ右手の植え込みにあった。
追悼録の写真に見る場所とは大きく変わっている。その後全面的に校舎が改築されて移転したのであろう。後に見える横幕に「2008年、兵庫高校は創立100周年を迎えます。武陽会」と書かれていた。
校庭のはずれにはその下でよく弁当の立ち食いをしたユーカリがそそりたっていた。島田先輩も同じようなことをしていたはずである。