日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

最後の沖縄県知事島田叡を母校から

2007-10-12 18:52:24 | 
私は沖縄のことをほとんど知らない。北海道のことを知らないのと同じ程度だが、北海道は何遍も訪れているのに対して、沖縄はまだ訪れたことすらない。何となくためらうものがあるが、その正体ははっきりしない。多分沖縄に向かい合う自分の視点が定まっていないからだろう。ところがその沖縄にある人物を介してかぼそいつながりが出来ているのである。

戦場となることが必至であった沖縄へ、最後の官選知事として昭和20(1945)年1月赴任した島田叡(あきら)氏が、奇しくも私の母校である兵庫県立兵庫高等学校の先輩にあたる。島田氏はその前身である第二神戸中学校を大正8年に卒業され、その後第三高等学校、東京帝国大学法学部政治科を卒業、官界に入られた。

昭和39年に島田氏の追悼録「沖縄の島守島田叡」が母校兵庫高校から刊行され、それをたまたま私が古書店で手にしてこのような因縁を知ったのである。その巻頭に私が在校の時は教頭でおられた校長姉崎岩蔵先生が「母校から」の一文を寄せておられる。。



巻頭言によると、その2年ほど前に《三高時代島田さんの一年後輩で、同じ野球部の選手であった評論家の中野好夫氏が「最後の沖縄県知事島田叡」の冊子を刊行》され、これが切っ掛けとなって島田氏の顕彰事業が始まったとのことである。島田氏は大正4年朝日新聞社主催の第一回野球大会に二中が兵庫県代表として出場した頃の名選手だったのである。さらにこのような一節がある。

《本校は創立已に五十八年を迎えたが、開校以来質素剛健自重自治の校訓のもとに新興都市神戸としては特異な校風が培われた。その上楠公の墓畔に近い学校として当時その影響も大きかったことが考えられる。時代は変わったにしても、本校の伝統である正義感といかなる難局に処しても曲げ得ない理性的判断と強靱さは今なお卒業生の性格を形成しているかの如く見える。》

この強調の部分はまさしく私のバックボーンでもあるが、島田氏はそのさきがけであったのだ。中野好夫氏の文によると島田氏の前任知事や県首脳の一部の行動にいろいろと問題があり、前の知事が沖縄を捨てて逃げ出したと沖縄県人が見ていたそうである。そのような状況下で持っていくトランクに出来るだけの家庭薬と拳銃、青酸カリなどを用意し、1月31日に福岡から軍用機で現地に島田氏は単身赴任した。亡くなった日は定かでないが、軍司令官自決の時は民政長官もまた自決すべきであると島田氏が口にされていたことから、それは6月22日、牛島司令官自刃の日からほど遠くない頃で、26日に姿を見せたのが最後であったとの話が伝わっている。わずか5ヶ月の任期であった。

赴任後は住民の食糧確保に二月下旬に交通さえ途絶えがちな台湾に自ら台湾米確保の交渉に当たり、交渉は成立したものの遂に現物は届かなかったとのことである。また島田氏の二中先輩として面目躍如だと思われるのは、二月下旬、米軍来攻の見通しがほとんど決定的だということになると、警察部長を呼んでもう風紀取締はしなくてもよいと指示をしたそうである。非常時のゆえをもって禁じられていた村芝居の復活を狙ってのことだったらしい。また酒や煙草の増配をさせたという話も残っている。

島田氏は最後の沖縄軍司令官牛島中将とは上海の領事時代から肝胆相照らす仲であったとかで、それが本土防衛最前線であった沖縄の民政をまかせる知事として氏に白羽の矢の立った伏線だったのだろうか。もし住民が集団自決を軍により強制されたなどの話を島田先輩が仮に耳にしたら、即刻軍に掛け合い、このような将校を罷免させたことであろうと私は思いたい。

この追悼録で私は島田先輩の記念碑が母校に建てられたのを知っていた。10月3日と10日に沖縄戦についての記事を書いたのがきっかけで、以前から気になっていたこの記念碑を自分の目で確かめたくなり、今日何十年ぶりかで母校を訪れた。その碑は正門を入ってすぐ右手の植え込みにあった。



追悼録の写真に見る場所とは大きく変わっている。その後全面的に校舎が改築されて移転したのであろう。後に見える横幕に「2008年、兵庫高校は創立100周年を迎えます。武陽会」と書かれていた。


昭和39年頃の碑



詩人竹中郁氏による銘文


校庭のはずれにはその下でよく弁当の立ち食いをしたユーカリがそそりたっていた。島田先輩も同じようなことをしていたはずである。



沖縄戦「集団自決強制」問題のつづき

2007-10-10 16:35:19 | Weblog
33歳の主婦が「憤り消えない日本軍の強制」(多分新聞社でつけたのだろうが)のタイトルで朝日新聞の投書欄に次のような一文を寄せていた。



「集団自決が日本軍に強制されたことは沖縄では常識です。大勢の住民を手にかけた日本軍への憤りは今も沖縄の人たちの心から消えていません(強調は私)。沖縄戦で何が起きたのか正しく伝えるべきです」が主張したいことのようである。

沖縄では常識です、と云われたら、私は「ああ、そうですか」としか云いようがない。でも釈然としない。

この文章に一カ所米軍と言う言葉が出て来るが、それを見逃すと、上の強調部分のように、沖縄戦とは日本軍による沖縄の人の一方的な殺戮であったかのようなイメージが浮かび上がる。米軍は刺身のツマか。

この主婦は「(日本兵が、私の補筆)住民のかくれている壕の中に入ってきては食料を奪い、泣く子どもがいればその親に殺させる。そんな衝撃的な話を現場に居合わせた人たちから聞き、幼い頃は夜も眠れませんでした」とのことである。

「幼い頃」とは幼稚園児ぐらいの頃なのだろうか。となるとその話を聞かされたのはそれよりももっと幼かったのかもしれない。いずれにせよ、頑是無い幼児に沖縄の人たちは、幼児が怯えることを知ってか知らずか、『衝撃的な話』を聞かせていたことになる。それとも『衝撃的な話』を未来永劫沖縄の人の間で語り伝えさせるために、強制的に幼児の頭に刷り込むことにしているのだろうか。またこの主婦はご自分の子どもにも、怯えることを承知の上で『衝撃的な話』をされたのだろうか。それでは『常識』が作られるはずである。

そして「11万人集会」である。昔の日本軍で云うと5師団に相当する大群衆が「ヤンキー・ゴー・ホーム」を叫ぶのなら私もすんなりと分かるが、沖縄の常識だからと「日本軍に強制された集団自決」を教科書に復活させよというのだから、「アレレレ・・・」である。

もしかして、そこまでして倦まずたゆまず昔の日本軍への憤りを掻きたて、その憤りをひいては本土に向けるということの裏に、沖縄独立・琉球王朝復活という沖縄の人の悲願が隠されているのでは、と思ったりもする。奇矯だろうか。

以前のブログ、元軍国少年がみる沖縄戦「集団自決強制」問題の続きである。

拝啓博士浪人どの

2007-10-08 16:02:13 | 学問・教育・研究
昨日、一昨日と私の以前のエントリー大学院教育には口を出すより金を出せばに異常にアクセスが増えている。vikingさんの【ドクター・ポスドク問題】からのアクセスである。今頃、何故と思ったら訳がわかった。vikingさんが「ドクター・ポスドク問題」解決私案として、日本で「ドクター・ポスドク」を作らなければよい、と極めて明快な提案をされている。その最後に「博士全廃」よりも建設的かも知れないと私のエントリーを紹介された、そのせいなのである。これも「ドクター・ポスドク問題」に関心を寄せる人々が多いことの反映なのだろうか。

私は私が大学院に進んだ頃で《近年職のない博士がゴロゴロとか、豊かさの象徴と喜ぶより先に、人生あなた任せの脳天気さ加減を叱咤したくなる。》と述べたように、『博士浪人』には醒めた目を向けている。しかし一言だけ残しておきたい。

私もかって16ヶ月間『博士浪人』を経験している。だからいろんな状況下の浪人がいることを承知の上で、あえて『博士浪人』と十把一絡げにして話を進めるから、自分はそんな『博士浪人』ではない、と思われる方は無視していただければよい。私の一言とは簡単、自分の運命を自ら切り開くことのすすめである。そのためには今の自分の現状を他人のせいにしないことである。

国が大学院の定員を増やすは、奨学資金を増やすはで、博士をどんどん作り出したのが悪いといまさら責めても何の益もない。悪いのは無思慮にその企みに乗せられた自分なのだ、と心の底から思えるようになればよい。国がいかに好条件を出そうと、選択は国民の側にある。その一例が少子化対策への国民の姿勢にある。

少子化傾向に歯止めをかけようと、国は「産めよ増やせよ」と呼びかけ、生まれた子供に金銭的援助を保証するなど出生率を上げることに大童である。「科学立国にもっと博士を」ということで金をだすのと同じ構図である。ところが「産めよ増やせよ」のかけ声に踊らされ、お金にホイホイ釣られて子作りに励むようなおめでたい人がいるだろうか。子どもを持てる状況にあるのかどうか、また自分の人生設計に子作りが必要不可欠か、それぞれ自分たちの判断で産む、産まないを選択しているではないか。『博士浪人』は考えるべき時期に真剣に考えなかった結果であることを自ら覚るべきなのである。

「君の就職ぐらいは何とかなるから」と教授の甘言に騙された、と繰り言を云う『博士浪人』もいるようだ。教授とは数多の難関を乗り越えた自信に裏づけられて総じて楽観的なものである。自分がやれたから人もやれるはず、とついつい自分を基準にものごとを見てしまうものである。その楽天的な言葉を簡単に信じたのが悪かった、と思えるようにならないといけない。「円天」の被害者のようなものである。どうしても気持ちが納まらないのなら、わら人形に呪いの釘でも打ち込んで、あとは綺麗さっぱり忘れることである。

『博士浪人』を自ら招いた運命であると思い定め、『研究』という言葉の呪縛から身を解き放ってみると思いがけない活路も開かれるものである。「天は自ら助くる者を助く」を銘とすべし。

私の周辺でも、ポスドクでアメリカに渡ったものの「高級テクニシャン」としての身過ぎ世過ぎが遙かに気楽だと『博士』を捨ててしまった人とか、同じように「高級テクニシャン」で満足していたところ、向こうの教授に気に入られて結婚した人(この場合は女性)とか、科学機器の売り込みとか修理に来た人に博士の肩書きの名刺を出されたとか、製薬会社の社員の教育係になったとか、そういう話はいくらでも転がっている。なかにはアメリカにポスドクで渡り、日本に舞い戻っては今やバイオ研究者なら誰でも知っている有名会社の社長に納まっているかっての勉強仲間もいる。もう一度、「天は自ら助くる者を助く」を銘とすべし。

全日空機、誤った滑走路に着陸 間違ったのは管制官だった

2007-10-07 11:04:56 | Weblog
昨日のasahi.comの《全日空機、誤った滑走路に着陸 管制指示誤認 大阪空港》(2007年10月06日01時18分)の見出し記事では《国土交通省によると、操縦士が指示を誤認したうえ、管制官も操縦士から復唱された誤った内容の応答を聞き逃したという。》と記されており、明らかに間違ったのは操縦士という書き方になっている。

しかし私がこの記事からその時の状況を頭の中で再構成すると、どうも反対の結論が出て来るのである。そこで《この新聞記事を読む限り、間違っていたのはB滑走路に着陸指示を与えた大阪空港管制所の管制官という可能性も考えられる。》と指摘した。

私のこのエントリー全日空機、誤った滑走路に着陸 間違ったのはどちらだ時評親父さんがトラックバックを付けてくださった。そのリンク先でiZaニュースの記事が引用されており、そこに次の記事があった。《 国土交通省によると、448便はA滑走路(1828メートル)に着陸する予定だったが、操縦士と管制官の無線通信のやりとりで、操縦士がB滑走路(3000メートル)への着陸を要求したと管制官が誤解し、B滑走路への着陸を許可。操縦士は「A滑走路に着陸」と復唱したが、管制官は誤りに気付かず聞き逃したという。》さらには《A320型機(全日空機のこと、筆者注)は小型の旅客機で通常はA滑走路に着陸する。同省航空局は「パイロットからの指示を聞き逃した管制官のミス」として調べている。》と締めくくっている。

この記事によると間違っていたのは明らかに管制官であり、私の指摘が当たっていたことになる。そうだとすると事実と正反対の報道をしたasahi.comの記者・デスクは無駄飯を食っていることになる。

ヨドバシで安物買いの銭失い

2007-10-06 18:18:51 | Weblog
ヨドバシ梅田店で光学式マウスに最適と触れ込みのマウスパッドを購入した。家に帰って包装袋から取りだしたところえらい反り返っている。下の写真の通りで使いものにならない。袋には台紙が入っておりピタリと収まっていたので、こんなに曲がっているとは思いもよらなかった。それに簡単に平らにはなってくれない。袋の裏に「曲げたり、先の尖った堅い物で擦らないでください」と書かれているのがいかにも空しい。



これは明らかに不良品である。もともとからこのような状態だったのだろうか。まさかそうではあるまい、とMADE IN JAPANを掲げているメーカーの良心を信じたくなる。となると品物が古くなって干からびてきたからなのだろうか。野菜に果物、魚類は見分ける自信があるが、この手の物は苦手である。

私も悪かった。沢山の種類があるなかでマウスパッドぐらいと軽く見て、他に1000円ぐらいとか、なかには1500円もする品物が置かれている中で、格安の380円の品物を買ったのである。「安物買いの銭失い」という言葉のあることをすっかり忘れていたのである。

以前にもヨドバシでマウスの不良品を交換して貰ったことがあるが、380円のために往復620円の電車賃を使って出かける気にもならないし、またそれまでの電話のやり取りに余計なエネルギーを使う気にもならないので、このまま諦めることにする。

全日空機、誤った滑走路に着陸 間違ったのはどちらだ

2007-10-06 09:26:58 | Weblog
今朝のasahi.comに《全日空機、誤った滑走路に着陸 管制指示誤認 大阪空港》(2007年10月06日01時18分)の見出しで次のような記事が出ていた。最後の1行を除いて全文を引用する。私が何を問題にしているのかをはっきりさせるためである。

《 大阪空港で5日午後5時47分ごろ、松山発大阪行き全日空448便(A320型、乗客・乗員165人)が、B滑走路(3千メートル)に着陸する指示が飛行場管制から出たにもかかわらず、並行するA滑走路(1828メートル)に着陸するミスがあった。国土交通省によると、操縦士が指示を誤認したうえ、管制官も操縦士から復唱された誤った内容の応答を聞き逃したという。

 A滑走路手前の誘導路では、別の出発機が待機していたが、同機が異変に気づいて滑走路への進入を控えたため、危険は回避された。

 同省によると、448便は管制が指示を出した3分前に、関西空港にある管制所とのやりとりで、A滑走路への進入を許可されていた。また、同型機は通常、騒音への配慮からA滑走路に着陸していたという。このため、操縦士がA滑走路へ着陸するものと思いこんだとみられる。》(強調は私)

この文章を素直に読むと、448便は5日午後5時47分ごろ大阪空港に着陸する直前に飛行場管制からB滑走路(3千メートル)に着陸する指示を受けたが、その3分前には関西空港にある管制所とのやりとりでA滑走路への進入を許可されていたことになる。

飛行場管制とは大阪空港にあるの管制所のことなのだろうか。そうだとすると448便の機長は、まず関西空港にある管制所から指示を受け、その3分後に別の飛行場管制から指示を受けたことになる。最初から飛行場管制とだけ交信しておればよかったものの、二カ所の管制所から相次いで指示を受けるのがきまりになっているのだろうか。

二カ所の管制所から相次いで指示を受けるのがきまりになっているのなら、この新聞記事を読む限り、間違っていたのはB滑走路に着陸指示を与えた大阪空港管制所の管制官という可能性も考えられる。

記事に《A滑走路手前の誘導路では、別の出発機が待機していた》とあるが、元来は448便のA滑走路への着陸が終わるのを待ち受けていたかも知れないからである。

それにしてもなぜ二カ所の管制所から異なった指示が出されたのだろう。

新しいプリンター CANON PIXUS MP610

2007-10-04 17:50:56 | Weblog
これまで四五年ほど使ってきたインクジェットプリンターでは、プリントの印字、画像がぼやけだした。年賀状の時期までには買い換えないとと思っていたら、キャノンの新しいプリンターの予約受付をヨドバシがやっていたので、さっそくインターネットで申し込んだ。それが10月2日の19時51分、そして今朝の朝日新聞にこの新製品の全面広告が出ているなと見ていたら、9時半には早くも製品が配達されてきた。売り出し日に間に合わせたのか、迅速なサービスには恐れ入った。



この機種にはスキャナー機能もある。これまでレーザープリンター、インクジェットプリンター、スキャナーと三台並べていたが、この機会にこのプリンター一台で済ませることにしたので、嬉しいことに机の周りがゆったりした。

この四五年の間に技術が進歩して、とても使いやすくなっている。まず時間はかかるけれどプリントヘッドの位置調節を自動的にやってくれる。またパソコンに繋がなくてもカラー・モノクロのコピーがいとも簡単にできる。従来はいったんスキャナーで取り込んだ画像をファイルに保存してそれを印刷していた。メモリーカードから写真を印刷するのもお茶の子さいさいである。とにかく便利になった。

15年以上も前になるか、HPのカラープリンターを始めて(研究費で)購入したときは100万円近くした。それよりも遙かに性能の勝るプリンターがその30分の1以下の値段で買えるのだから、IT機器の進歩の速さはは恐ろしいものである。

以前はレーザープリンターをおもに使っていたのでインクジェットの使用頻度は低かった。ところが使っていないのにインクが詰まって出なくなってしまい、一年も経たないのにサービスセンターに持ち込んだ。まだほとんど使っていないのになんたることぞ、と私は思っていたのに、あまり使わないから詰まったのだ、と云われてギャフンとなった覚えがある。これからは毎日規則正しくお通じをこころがけることにする。

元軍国少年がみる沖縄戦「集団自決強制」問題

2007-10-03 16:00:47 | Weblog
私は日本が戦争に負けて、墨であちらこちら真っ黒に塗りつぶした教科書で勉強した世代だから、たとえ教科書といえども書かれたものに一歩距離を置いて接する智恵が身についている。とくに歴史教科書はそうである。書かれていることについても、書かれていないことについても、その意図をついつい考えてしまう。

沖縄戦で日本軍が「集団自決」を強制したとの記述が検定の結果、教科書から削除されたことが今社会・政治問題になっているが、なにが問題なのかが元軍国少年の私にはもう一つみえてこない。まず「集団自決」とは何を指すのか、である。

吉田裕著「アジア・太平洋戦争」(岩波新書)には、沖縄戦の一つの特徴として日本軍によって多数の沖縄県民が殺害されたことを取り上げて、それに続いてこのように述べている。

《さらに深刻なのは、「集団自決」である。米軍に圧倒され、戦局の行く末に絶望して自暴自棄となった日本軍将兵は、手榴弾を配るなどして、住民に「皇国臣民」として「自決」することを強要した。彼らは、米軍の残虐性などを強調しながら、住民を「集団自決」の方向に追いやっていったのである。沖縄の地方有力者が協力している場合もあるが、日本軍が関与し、日本軍が主導しなければ、この「集団自決」は、おこりえなかったであろう。》(182-183ページ)

戦時中を体験している私には、集団かどうかはいざ知らず、住民に自決を促した「おせっかい」な軍人がいたとしても不思議とは思わない。しかし上の記述のように、では《住民に「皇国臣民」として「自決」することを強要した》のは《戦局の行く末に絶望して自暴自棄となった日本軍将兵》だけか、と疑問を持つと、すべてがすべてそうではあるまいと思ってしまう。たとえ自暴自棄となっても同じ殺すのなら同胞ではなく敵兵を殺そうと考える兵士もいただろうし、愛する同胞を敵の残虐な手にかけるよりは自らの手で、と考えた軍人がいたかも知れない。住民がたとえ「集団自決」に追いやられたとしても、追いやったとされる日本軍将兵が十把一絡げに「自暴自棄」とされることに、生き残った将兵から異論が出るような気がする。それよりなにより、沖縄住民にとって自分たちが自決する場合もありうると云うことが、『日本軍将兵により強制』されて始めて意識に上ってきたのだろうか。私はここに違和感を覚える。

「南京事件」とか「従軍慰安婦問題」となると外国が絡んでくるが、この「集団自決」問題は国内でのことである。福田首相が「事実関係を調査することは、必要に応じてやることはあると思う。文部科学省でもって適切に対応していくことが大事だ」と語っているが、私も同意する。遅まきながらでも今回問題が顕在化したのを機に、徹底的な調査研究をぜひ行い、歴史検証の一つのモデルを作り上げて欲しいものである。

私の朝鮮時代、戦地の兵隊さんも銃後のわれら少国民も一丸となって聖戦貫徹に邁進するのだと国民学校で教育を受けた。いざ敵兵と相見えたときはと、木銃で刺突の訓練を国民学校四年生で受けた。玉砕と言う言葉は新聞・ラジオを通してすでに知っていたし、校長先生からもいざとなればわれら少国民もと戦う覚悟を叩き込まれていたのである。「生きて虜囚の辱めを受けず」は軍人のみならず、少国民の心得でもあった。

そのような教育を受けた『元軍国少年』が、1945年の朝鮮半島で北からはソ連軍、南からアメリカ軍に攻め立てられ、洞穴に日本軍と共に立ちこもりいよいよ最後を迎えていたら、軍人からどのような指示があっても疑うことなくそれに従ったと思う。少国民にとって玉砕であれ自決であれ傍から強制されることではなく自らの選択であった。

このように考えると、上の引用文に違和感を覚えるのである。少国民が自決するのは定められた運命を従容として受け入れてのことであって、《戦局の行く末に絶望して自暴自棄となった日本軍将兵》に強制されたと後世に受け取られてはおのれの名誉が汚されるというものだ。自決用の手榴弾は兵士から与えられないと、皇国の少国民がまさか盗むわけにはいかないではないか。手榴弾を渡されたことイコール自決の強制ではない。少国民にとっては玉砕であれ自決であれ、それは天皇陛下の名の下になされた教育・訓練によりすでに刷り込まれており、それが働き始める切っ掛けが将兵により与えられたとすると話は通じる。

この少国民とその当時の大人とは戦争に対する意識が違っていたのだろうか。沖縄の生き残った大人にとっては「集団自決」が日本軍将兵により『強制』されたという意識だったとすると、本気で玉砕か自決かを考えていた少国民としては肩透かしを食らわされたようなものだ。やっぱり大人の方が大人だったのだろうか。それとも、私は沖縄を国内として見ているのだが、沖縄の人にとってはその独自の歴史から朝鮮や台湾の人と同じように、日本は沖縄にとっても侵略者だという意識でもあったのだろうか。もしそうだとすると少国民とは異なる認識だとしても不思議ではなくなる。吉田氏の《沖縄は、日本本土から差別され続けてきた長い歴史を持っている。本土出身の日本軍将兵の沖縄に対する優越感や、侮蔑感がこうした残虐行為の引き金になった。》(182ページ)という記述が気になるところである。

「集団自決」の事実関係はこれからの解明を期待するとして、「集団自決」のことを教科書に書いたり削除したり、その意図はななんだろう。

「集団自決」を書く方の意図を考えてみる。一般論として戦争の悲劇を強調したいのであれば、サイパン島でのバンザイクリフでの投身自殺も同様に取り上げたらよい。ここでは婦女子が日本兵ともども米軍による投降勧告をも振り切って海に飛び込んだわけであるから、少国民の頭の中にすんなりと入る話である。戦時中国民はこのような教育を受けていた、という歴史的事実を伝えるのならピッタリの材料である。

サイパン島と沖縄で距離が離れている分、住民意識がそれほど大きく違っていたのだろうか。沖縄の人は反骨精神に富んでいて、「生きて虜囚の辱めを受けず」なんて鼻先で嗤っていたのだろうか。そうでないと「自決を強要された」という発想がどこから出て来るのか元軍国少年の私には想像がつかない。この辺りのことが分からないからこれ以上云いようがない。

それにしてもこの教科書検定問題で見せる福田内閣の腰の低いこと。慇懃無礼に教育への政治介入を一挙に計りそうな所に危惧の念を抱く。とくに渡海紀三朗文部科学相の商人とも見紛う腰の低さには驚嘆した。あの問題を起こした相撲協会の北の湖理事長の前に深々と頭を下げている映像に人物が入れ違ったかと私は一瞬錯覚を覚えたぐらいである。ここまで頭を低くできると、どんな難しい問題でも頭の上を通り抜けていくとでも思っているのだろうか。この教科書検定問題で早々と馬脚をあらわしていただきたいものである。


私が大学院に進んだ頃

2007-10-01 20:05:37 | 学問・教育・研究
大学院に関することに昨日書いたばかりに、つい自分の昔のことを思い出した。

私は学生時代、ホラ吹きだったのだろうか。というのは大学の教養時代に入っていた合唱団の追い出しコンパでプレゼントされた仲間からの寄せ書きに、次のようなメッセージがあったからである。



ゆくゆくはノーベル賞を狙うぞ、とでもホラを吹いていたのだろうか。しかしそんなに客気に駆られた言葉を生来慎ましやかな私が気安く口にするはずがない。ホラとノーベル賞は別のことだろう。というのも、もう一人別の人が次のように書いてくれているのである。



合唱団の追い出しコンパでこんなに「ノーベル賞」が出て来るのはどうも場違いである。いずれにせよ、私が口にしていたのでないのなら、考えられることはただ一つ、栴檀は双葉より芳しで、その頃から私は未来のノーベル賞学者の趣を漂わせていたに違いない。そのせいかどうか、学部に進んでも就職は論外で大学院に行くのが自分の定められた道だと思い込んでいた。やはり心に秘かに期するものがあって、研究者を目指していたのであろう。

誰に相談することもなしに自分の進路を決めたが、親には釘をさされた。家から通えるところならいいが、仕送りする余裕はないから下宿は駄目、という訳である。一家は朝鮮からの引き揚げで父は普通の勤め人、まだ下には妹一人と弟が三人いる。当然のことである。早く働いて仕送りをするように云われなかっただけでも有難いことであった。

大学院ではアルバイトは一切せずに勉強に研究に精を出そうと思った。もし奨学金が貰えるのならそれで何とかやっていけそうである。当時私が目指していたコースでは奨学金は二人ぐらいしか当たらず、大学院入試の成績でだいたい決まるようなことが云われていた。これなら勉強すれば済む話である。ところがある問題が起きた。

同じく大学院を目指していた仲間の一人がある提案をしたのである。皆が奨学金を欲しいのだから、受取人は二人でもそのお金をプールして皆で平等に分けよう、というのである。云いだしたのが親友であっただけに困ったことになったと思った。奨学金の額は忘れたが、それだけあればアルバイトをせずにやっていけると思ったのに、そんなことをすると否応なしにアルバイトをせざるを得ない。それに返済時が厄介である。大学院で貸与を受けた奨学金は、何年か例えば大学に奉職すると返還が免除されるが、その条件を満たさなければ返還しないといけない。だから下手すると人の借りた分を返さないといけなくなる場合もある。どう考えてもおかしい。共倒れになるようなことは止めようとの私の意見への賛同者が幸い多くて、この分配案は消えてしまった。

結果的に云うとこの友人は大学院を断念して、わが国最大手の製薬会社に就職し定年まで勤めた。経済的には私より遙かに恵まれた生活を送っているはずだ。ところでこの奨学金を全員で平等に分配する方式を私の何年か下のクラスが実行したのである。少しは経済的にもゆとりのある年代になっていたからなのだろうか。ただ返還の事務に手を取られたとは後で聞いたような気がする。

大学院博士課程を修了した私の同期生は、それぞれが紆余曲折を経たものの全員が大学に勤務することが出来た。博士の就職先と云えば大学しかなく、研究生活を続けることが極めて厳しい時代であっただけに、大学院に進学を決めるには皆真剣であったし、選んだ以上は初志を貫徹するのにお互いが切磋琢磨しあった。入試の面接でアルバイトをせずにやっていけるか、と覚悟の程を問われたのを思い出す。私の判断は間違っていなかったのである。

近年職のない博士がゴロゴロとか、豊かさの象徴と喜ぶより先に、人生あなた任せの脳天気さ加減を叱咤したくなる。

間もなくノーベル賞発表の時期である。昔の歌仲間を喜ばせたいが、もはや名前も忘れさられていることだろう。