日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

またまた21世紀COEプログラム

2007-08-21 16:19:35 | 学問・教育・研究
京都大学の21世紀COEプログラム「世界を先導する総合的地域研究拠点の形成」の研究成果報告書(以下報告書と略記)に目を通して、私の感じたことなどをこれまで二度にわたって書いてきた。この時に、あまり細かいことに立ち入ってもと思い、草稿からかなりの部分を削除した。その骨子は次のようなものである。

報告書30ページには《FSを活用した臨地教育(オンサイト・エデュケーション)の成果としては、以下のような点があげられる。まず、大学院生と教員が一緒にフィールドワークをおこなうことにより、その現場において、大学院生の研究方法・目的等の不備を直接に指導し、高度な教育を効率的にすすめることができた。》と記されている。「ほんとかな?」という気持ちがあったので、改めて野暮を承知で報告書を見直しFSに対する疑念を述べることにした。

このままに置いておくつもりでいたが、今日のエントリー「機長の姿の見えてこない中華航空炎上事故」を書いたときに、そういえば教員の姿の見えてこない報告書だったな、とこの削除した部分を思い出してしまった。そこで「見ず知らずなのに、ここまで真面目にこの報告書を見てくれる人がいたのか」とリーダー諸氏にちょっぴり手応えを味わっていただければと思い、以下に「教員の姿の見えてこない」話を復活させて続けることにした。


インドネシアには二カ所FSが設けられた。そのうち報告がよりしっかり書かれているインドネシア(ボゴール)でのFSの活用に注目してみた。

《ボゴール・フィールド・ステーション(BFS)は、2003年3月にインドネシア国立ボゴール農科大学(IPB)と交渉を始め、2004年2月に契約締結を終わり、事務室、会議室、実験室を伴ったオフィスとして開設された。事務機器や実験機器の整備はまだ十分されていない。2004年度には、研究対象地域のデジタルマップをコンピュータに組み入れた設備を整備し、ASAFAS、CSEASの学生、教員ばかりでなく、日本の他大学の学生、教員、インドネシアの研究者も利用できる研究、情報交換の場として、より活用を広めていきたいと考えている。》(報告書65ページ)

このボゴールに平成13(2001)年度入学の大学院生KMさん(♀)が以下のような日程で派遣された。
     ①平成16(2004)年 1月7日~3月30日
     ②平成16(2004)年 6月15日~平成17(2005)1月2日 
     ③平成18(2006)年 1月9日~2月4日
     ④平成19(2007)年 1月~2月

先ず最後の④であるが、この21世紀プログラムは平成18年度で終わりの筈だから平成19年の1月~2月というのは幕切れの直前。この期間に《CIFORに研究ベースおいて、インドネシア、東カリマンタン、マリナウ、ロング・プジュンガン、ロング・ブラカ村において、プナン・ブナルイの植物に関する民俗知識の収集と証拠標本の採集を行っている。CIFORでは博士論文の執筆も行っている》(報告書68ページ)のであるが、仮にその通りだとしても、私には幕切れ寸前の駆け込み予算消化のように見えた。

そしてこの「CIFORに研究ベースおいて」の部分が注目に値する。CIFORとはCenter for International Forestry Research(国際林業研究センター)のことで、世界の森林に関する資料・情報が収集されているセンターであり、FSとも近い距離にある。このCIFORでKMさんは博士論文の執筆までも行っているのである。このようにすぐれた研究センターがあるにもかかわらず、わざわざFSを作ったところにFSの『たまり場』的性格が見えてくる。

次に注目したいのは②である。この半年を超える期間にKMさんは《インドネシア、東カリマンタン、マリナウ、ロング・プジュンガン、ロング・ブラカ村において、プナン・ブナルイの植物に関する民俗知識の収集と証拠標本の採集をおこなった》のである。上の④での記述と重なるところがあるものの、この半年間にどの程度現地に出かけ、どれぐらいFSなりCIFORに滞在していたのかは分からない。

『植物に関する民俗知識の収集』を現地住民から直接行ったのか、それとも既にアーカイブ化されているデータベースから収集したのか、どちらなのだろう。『証拠標本の採集』とわざわざ『証拠』を強調しているのはどういう意味だろう。データベースに出ている植物を、実物はこれだ、と示すために採集したということなのだろうか。どのような新しい知見があったのかどうかを含めて、研究報告に記されていることを期待するしかない。

ここで私が問題にするのはKMさんが現地でどのような臨地教育を受けたのか、ということである。

この報告書にKMさんの研究成果が記載されている。内容は口頭発表から出版予定のものまでいろいろであるが、それにしても2002年から2007年の間に和文が17件、英文が7件あり、KMさんが勤勉なうえに極めて優れた能力をお持ちの方のように私には思われた。17件の和文全てと英文4件がKMさんの単独名で発表されているからである。

そこで逆に疑問が持ち上がる。この21世紀COEプログラムの目玉である臨地教育の指導者の姿が見えてこないからである。何故だろう

一つの可能性を想像してみた。人文系の教育者・研究者には個人プレイが基本である。研究とは違うが小説は一人で書くし、評論も一人で書く。研究論文も研究書も単独執筆が当たり前の世界である。もちろん研究仲間の間では意見交換は活発にするだろうが、それは切磋琢磨の場では当たり前のこと。ちょっと院生の相談にのっただけで研究指導をした気になり、論文に臆面もなく名を連ねるのが当たり前とする、一部の自然科学系研究指導者ほど気がせせこましくないのではなかろうか、と。

しかしKMさんは単純に人文系ではなさそうだ。

KMさんの英文報告にethnobotanyなる言葉が出て来る。民族植物学とか伝承民族植物学とかいう意味で、これなら私にもある程度内容が推察可能だ。Wikipedia(英語版)によると、食物、医薬、まじない、化粧、染料、繊維、建物、道具、衣料など、植物が人間社会でどのように利用されてきたのか、また使われているのかを調べる学問のようである。そのためには研究者には植物を同定することから始まり、採取した植物を標本として保存したりする、植物学の基本的な知識・技術が備わっていることが要求される。さらに人類学的研究の下地が必須になる。現地の社会に溶け込むのだからまず言葉が分からないといけない。KMさんが堪能なのは何語なんだろう。そして現地の人々の風俗習慣を学んで理解できなければならない。ということで、人文系と自然科学系が融合しているような学問分野のようである。

このように考えると現地の住人と接触するところから始まり、現地人の生活にも溶け込む所まで実地教育をしてくれる指導者の存在意義は大きい。そして長期間にわたるフィールドでの調査研究では共同行動が欠かせないだろう。それぐらい教育・研究活動に密接にかかわりのある指導者なのに、その存在がKMさんの場合にはっきり見えてこないのは何故なんだろう。その存在に関する一つのヒントは英文報告2件に出て来る共著者の名前である。それぞれ別人であるが、一人は報告書にただ一度顔を出すだけなので無視することにする。

KMさんとここのFSでの滞在期間が重なる教員が一人存在し、それが英文報告のもう一人の共著者MKさん(♂)なのである。彼は《(2004年)3月15~17日の期間に、ワークショップの準備と発表のために出張した》記されている。KMさんの①と若干時期が重なるが、研究指導を行ったとの記述はない。このように少なくともこの報告書からはKMさんの現地調査の状況が研究指導者の存在ともども分からないのである。もちろんKMさんの研究報告を見れば分かることであろうが、ここでは報告書に目を通して感じた疑問を記すだけにした。

これはただの一例であるが「一事が万事」式で考えると、上に引用した《FSを活用した臨地教育(オンサイト・エデュケーション)の成果としては、以下のような点があげられる。まず、大学院生と教員が一緒にフィールドワークをおこなうことにより、その現場において、大学院生の研究方法・目的等の不備を直接に指導し、高度な教育を効率的にすすめることができた。》は単なる作文に過ぎないと云えそうである。

そしてFSの現状はどうなんだろう。もう答えが出ているはずである。後始末がどうなったのか、この報告書からは見えてこないので言及のしようがない。


以上で草稿の復活は終わる。それにしても優秀な学生が集まってくる大学の先生は幸せである。教えなくても学生が勝手に勉強してくれるからである。そういえば現役時代、私もその幸せを噛みしめていた。

機長の姿が見えてこない中華航空炎上事故

2007-08-21 11:07:44 | Weblog
那覇空港に到着したばかりの中華航空機の炎上事故は凄まじいものだった。エンジンから黒煙が出ているところから始まって炎が上がり、やがて爆発を起こして一挙に炎が広がる。懸命の消火活動でようやく鎮火するまでに1時間もかかり、あとには無惨にも破壊し尽くされた機体が残った。

緊急用脱出シュートから乗客らが脱出し完了したのが、大爆発の起こった午前10時35分の1分前というから、全員無事は奇蹟ともいえる。ほんとうによかった。

テレビに釘付けになっていて、一番もどかしく感じたのは、乗客の脱出にいたる経緯が一つも伝わってこないことであった。今日の朝日朝刊でようやくその一部を知ることが出来たが、かなりの混乱があったようだ。

《右翼エンジンからの煙はもう炎に変わっていた。左側の窓の向こうにも火柱が見えた。あっという間に両翼とも炎に包まれていた。「早く下りろ。降りないと危ない!」 それでも乗務員は「大丈夫です、大丈夫です」と繰り返していた。機長からは席を立たないようアナウンスがあった。》

《2、3分後だったと思う。ようやく前方のドアが開いた。足元には脱出用のシュート。乗客はそれぞれの居場所からの近いシュートをめがけて駆けだした。乗務員たちが中国語で「ここから飛び降りて」と叫んでいた。》

私が不審に思うのは機長の姿が見えないことだ。爆発寸前にコックピットの窓から脱出する乗務員の姿があったが、その一人が機長だったのだろうか。それまでの動きが「席を立たないよう」のアナウンス以外に見えてこない。この一連の出来事の中で機長はいったい何をしていたのだろう。

中華航空機が駐機場の41番スポットに到着した午前10時32分、地上の整備士二人が《右側エンジンから燃料が洩れているのを見つけ、操縦席への交信でエンジン停止を要請した。さらに、同エンジンから煙が出ているのを確認、消火装置を作動させることと、緊急脱出を相次いで求めた。》とのことである。整備士からの要請にしたがって機長が初めて緊急脱出の指示を出したようである。

事故原因の本格的調査はこれからであるが、燃料漏れの直接原因とともに、何時機長が気付いていたのか、が問題になると思う。計器類が正常に働いていたとすると、整備員からの連絡で燃料漏れを初めて知ったとは考えにくいからである。一歩まかり間違えれば大惨事になりかねなかっただけに、機長の姿の見えてこない背景が気になった。