日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

戦時中の昭和19年に出版された英語の化学専門書

2007-08-31 12:48:41 | 学問・教育・研究
整理したくてもなかなか捨てきれない本がある。たとえば次のような本である。



この本を広げて撮った写真で、大きさは125×182ミリで400ページほどある。紙質は悪く表紙も中とほとんど変わらない。表表紙には「ACID-BASE INDICATORS」とあり、背表紙には表題の下に「KOLTHOFF AND ROSENBLUM」と著者名が、一番下には「MACMILLAN」と出版社の名前が入っている。そして裏表紙に「REPRINTED IN NIPPON」と印刷されているのが目を引く。もちろん中身は英文で書かれている。

私はかってpH関係の仕事をしたことがある。pH indicators、すなわちpH指示薬を使っての仕事だったので、勉強にと古本屋で買ったのである。最近蔵書を整理していてこの本を手にしたところ、ある面白いことに気づいた。この本の奥付である。



発行が昭和19年1月30日となっている。この二日後の2月1日には《アメリカ軍、マーシャル群島のクェゼリン・ルオット両島に上陸(6日、両島の日本軍守備隊全滅)》し、また2月21日には《東条英機首相兼陸相、参謀総長を兼任(嶋田繁太郎海相が軍令部総長を兼任)、一部に憲法違反の非難がおこる。》(日本史総合年表、吉川弘文館)と云うように、頽勢が顕著になり出した時期である。3月には政府が「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」を閣議決定し、中等学校生徒以上の全員が工場に配置されるようになっている。

巷ではすでに昭和18年3月10日陸軍記念日の頃から敵性語としてカタカナ英語や英語が追放され、英語教師は肩身の狭い存在になっていた。このような時期に英語版の「ACID-BASE INDICATORS」が300部も発行されたのである。発行者の名前は明記されているが、どのような動機で、またどのような購買対象を想定してこの本の発行を思いついたのだろうか。8月23日に学徒勤労令が公布されたが、大学・高等専門学校2年生以上の理科系学生1000人が辛うじてその適用を免れている。そのうちの何人かでもこの本を手にしていたのだろうか。

「ACID-BASE INDICATORS」は化学の基本的な理論の本で、戦争完遂目的とはおよそ無縁の専門書である。狂気の時代と一口に切り捨てられかねない戦時に、この本の刊行に携わった日本人の心意気を想像して私の心も高揚した。もちろんこの本は今で云う海賊版である。しかし「REPRINTED IN NIPPON」と印刷した日本人の律儀さに、私は自然と微笑んでしまった。

ところで以下は著者のKolthoff博士にまつわるおまけの話である。

大学人の業績で分かりやすいのは発表した論文の数である。分野によって、人によって、たとえば英文の論文以外は認めないとか、数え方にもいろいろあるので同じ基準での比較は難しいが、一応の評価にはなる。量より質、との意見も出て来るだろうが、『天才は多作である』は芸術の世界のみならず、学問の世界にも通用するのではないかと私は思っている。

その多作ということでも有名なのがこのDr. Izaak Maurits Kolthoffなのである。1884年にオランダで生まれ、ユトレヒト大学で薬学を専攻し、1918年に化学での博士号を得ている。1927年にはアメリカミネソタ大学化学科の分析化学の教授になり1962年に引退し、1993年に亡くなった。分析化学の父ともいわれた方で、私の世代で化学を専攻した人なら必ず彼の著した教科書のお世話になっているはずである。

どれぐらい多作かというと1917年から1962年の引退までの間に809編の論文を出している。年平均18編、ということはほぼ20日に1編の割合になる。化学には論文量産者が多いと聞くが、それにしても勤勉である。しかし話はここで終わらない。アメリカでは大学教授は引退後も研究費を獲得しては研究生活を続ける人が多い。彼も引退後、30年にわたってかっての弟子たちと共同で136編の論文を出したというのだから驚く。

このKolthoffの最初の著書が1922年に出版されたドイツ語の「Der Gebrauch von Farbenindikatoren」(Julius Springer, Berlin)で、その後版を重ねて英語にも翻訳された。1937年には英語の増訂版「Acid-Base Indicators」がC. Rosenblumを共著者としてNew YorkのMacmillanから出版され、その『海賊版』が私の手元にあるという次第である。

Kolthoffが指導した大学院生は67人でその多くが学究生活に入って孫弟子、ひ孫弟子を育てているので、Kolthoffが亡くなる1993年までに彼の系譜に連なるPh.D学位保持者が1500人にも達したとのことである。

ついでに紹介すると、Koltohoff博士に優るとも劣らぬ凄い日本人の記事が最近の朝日新聞に出ていた(8月20日)。HO先生のことである。教え子から150人を超える大学教授が生まれて、ひ孫弟子まで含めると1000人を超えるとのことである。