日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

大学院はモラトリアム人間の棲息地

2007-08-24 18:20:34 | 学問・教育・研究
昨日(8月23日)の朝日朝刊に「ニュースがわからん! 博士になっても就職難?」との記事が出ていた。世間の人は、博士号をもっているような優秀な人材は、引く手あまたで一流企業への就職も思いのままと想像しているのに、ということの裏返しなのだろうか。大学人の間では昔々から大きな問題となっているのに、である。

ここに過去約半世紀にわたる大学院在学者数の推移図がある(教育再生会議資料から)。S35、すなわち昭和35(1960)年といえばまさに私が大学院博士課程に進学した年なので、この年の博士課程在学者数7429人のうちの一人ということになる。それが46年後の平成18(2006)年に博士課程在学者が75365人というから、ほぼ10倍に増えたことになる。ただ修士課程在学者がもっと高い倍率で増えているから、大学院生全体としては昭和35年の15734人に対して平成18年は261049人で17倍弱の増加率となる。よくもまあ、増えたものである。



一方、博士課程修了者の進路状況について、平成8年から18年までのデータがある(文部科学省データから)。最新のデータで就職率が57.4%というから4割強が失業者となる。一時的な仕事に就いたものにポスドクが含まれるとすると、これは失業者予備軍と考えた方がよいのかも知れない。



このグラフを見る限り、この4割強の失業者が平成11年から毎年恒常的に生まれていることになる。しかしこれだけでは『失業者』の実態が見えてこない。私が博士課程を修了したのは昭和38年であるが、その当時でも教務職員に採用されたのがほぼ1年半後で、助手になったのがさらに半年後であった。すなわち2年遅れで何はともあれ教育職に就いたわけだから、ある年度での『失業者』がたとえば2年後に全員何らかの職を得たとすると、問題になるのはその『浪人期間』の過ごし方ということになる。

これに対して『失業者』が毎年増加していくのであればこれは問題になる。その実情調査があることを期待するが、私はまだ目にしていない。「博士になっても就職難?」と取り沙汰されるのをみると、やはりこの深刻な状況がすでに生まれているということなのだろうか。そして、このあり地獄のようなところに性懲りもなく飛び込んでいく人の心はどうなんだろう。

国としてはかなりの費用をかけて博士を養成したのに、博士の働き場所がないとはこれまたもったいないことである。結果的には博士を作りすぎたことになる。そこでこの朝日の記事によると《文科省は昨年度から、大学などを対象に若手の博士が企業に就職するのを支援する事業を始めた》とのこと、もちろんこの試みがうまく行けばよいが、私はこの泥縄的対処にはあまり期待が持てないと思う。なぜかといえば大学院が「モラトリアム人間」の棲息地になっていて、その付けが廻ってきただけ、と考えるからである。以下に私なりの考えを述べてみるが、もしかしてこの認識から『失業者』問題解決の積極策が生まれるかもしれないと期待もするからである。

小此木啓吾氏の名著「モラトリアム人間の時代」が出版されたのは昭和53年、すでに約30年も経っている。しかし視点の新鮮さは色あせていないと思う。大学生諸君にもぜひ読んで欲しい本である。



たとえば次の文章はどうだろう。

《企業の中では、今の職業を一生の仕事にするかと問われて、イエスと答えない青年が珍しくなくなったし、何を専攻するかときかれて、もうしばらく広くいろいろと勉強してからと答えるのが、大学院生や研究者の一般的風潮になってしまった。形の上では就職しても、その企業職員としての自分を本当の自分とは思わず、本当の自分はもっと別の何かになるべきだ、もっと素晴らしい何かになるはずだ、と思いながら、表面だけは会社の仕事をつつがなくこなし、周囲に無難に同調するタイプのサラリーマン。既に形の上では結婚し、子どもさえできていても、それで本当に自分に身がかたまったと思っていない男女。みんなが、その実人生においてお客さまで、自分が本当の当事者になるのは、何かもっと先ででもあるかのように思っている。》(11ページ)

当事者意識がなかったり当事者になることを嫌い、それぞれの場所でできるだけお客さま的存在であることを望む若者、その後30年を経てますます増加傾向が止まらないのではなかろうか。

このような万年青年的な心性の持ち主を小此木氏は「モラトリアム人間」(猶予期間にある人間)とよんだが、《今や、「モラトリアム人間」は、留年学生、大学院生といった表だった形を取るものだけでなく、(中略)企業組織の管理者、官僚、政治家といった要職にある人々の中にさえも広く潜在し、エーリッヒ・フロムのいう意味での、一つの「社会的性格」になろうとしている。》(12ページ)のである。

ここですでに大学院生が「モラトリアム人間」視されているが、「モラトリアム」とはどういう意味合いで使われているのか。そもそも「モラトリアム」は、青年がオトナ世代から知識・技術を継承する研修=見習い期間として存在するもので、高度の知識・技術の習得が不可欠な専門職の卵では、必然的にこの期間が長くなる。もちろん大学院生がこれに入る。そして《教育者はもちろん、大学にのこる学者、研究者をはじめ、見習い研修期間の長い医師、裁判官は、いずれもこのモラトリアム精神を自分たちの職業意識にすると共に、社会の側も、これらの職業の専門家たちに、その時代・社会における政治状況からの局外中立の自由を認めている。》(15~16ページ)すなわち《一時的に、社会に対する義務と責任の決済を猶予されている》のである。

この一時的と言う言葉が重要な意味を持つ。なぜなら《旧来の社会秩序の中では、このモラトリアムは、一定の年齢に達すると終結するのが当然のきまり》(17ページ)だったからである。これを「古典的モラトリアム心理」と小此木氏は位置付けている。ところがこの「古典的モラトリアム心理」が変貌して「新しいモラトリアム心理」が出現する。それが上記の当事者意識がなかったり当事者になることを嫌い、それぞれの場所でできるだけお客さま的存在であることを望む若者の出現なのである。それを小此木氏はこのように述べている。

本来のモラトリアムは、青年が、社会的現実から一歩距離を置いて、その自我を養い、将来の大成を準備するという明確な目的をもった猶予期間だったのであるが、もはや現代のモラトリアムでは、そのような目的性は希薄化し、本来なら社会的現実と対立するはずの猶予状態そのものが、次第に一つの新しい社会的現実の意味をもつようになった。そして、古典的なモラトリアムの心理そのものの質的な変化があらわれはじめた。》(21ページ)

その質的変化がどのように起こったのかは小此木氏の論考に委ねるとして、古典的な図式ではモラトリアムを終えた青年は《最終的には、職業選択、配偶者の選択、行き方などについて、オトナとしての自己選択を行い、既存社会・組織の中に一定の位置づけを得なければならない。ところが、この最終的な決着、ふんぎりのつかぬ青年たちがふえはじめたのである。》(28ページ)かくして《大学で何回も留年をくり返して卒業を延期し、就職によって特定の社会組織にとりこまれ、サラリーマンとしての自分を限定してしまうことにささやかな抵抗を続ける留年学生。大学院生になって、いつまでも博士論文を書かぬ青年たち》が生まれるのである。

この「新しいモラトリアム心理」を自分たちの生活感情や生き方にしているのが小此木氏の唱えた「モラトリアム人間」であるが、それが既に一世代を経ての現在のフリーター全盛の予見とも云える。そして大学では大学院がこの「モラトリアム人間」の絶好の棲息地になったというのが私の見解なのである。

修士課程を終えて就職する大学院生は、いわば正当なモラトリアムの継承者であるから、ここで取り上げる対象者外となる。私がここで問題にするのは博士課程に進学する大学院生である。この中にかなりの「モラトリアム人間」が紛れ込んでいると私は見る。大学院も世間から懸絶した聖地ではないからである。確かに「モラトリアム人間」の存在がすでに現在社会で普遍的現象ではあるが、それに大学院を棲息地として提供したのは大学側である。

4年間(あるいはもっと)の大学生活を終えた学生にとって、フリーターより恰好のよいのは大学院生である。博士課程まで進めば5年間は猶予期間を延長できる。あわよくば博士号も手にしうる。奨学金の当たりもよくなったし、景気のよい教授につけば返還無用の『給料』にもありつける。頭を使わなくても何をどうすればよいか、すべて指示は与えて貰える。大学院の入学試験なんかチョロいもの、大学ではどう頑張っても無理だった超一流校に、大学院なら滑り込みも夢ではない。とにかく筋金入り「モラトリアム人間」にとって、大学院は天国である。

そういう不埒な「モラトリアム人間」の潜入を阻止するのが元来は大学院教員の使命でもあるのだが、大学院定員を満たすために、また自分の戦力確保のためについつい妥協してしまう。COEプログラムでリーダーが主体となって大学院生に各種の経済的援助を与えられるようになったことが、さらに「モラトリアム人間」の跋扈を許すことになる。リーダーが後始末を自ら行う、もしくは後始末をせずに済むように、最初から策を立てる。この当事者意識をリーダーが持ち合わせていないとすると、リーダー自身の「モラトリアム人間」化を疑った方がよい。

大学院(博士課程)に多くの「モラトリアム人間」が棲息しているとの前提に立つといろいろと見えてくるものがあるし、就職問題を含めていろいろな問題解決に方策の立てようもあるというものだ。ヒントは小此木氏の著書にあるが、その気になれば私の見解をまた述べてみようと思う。最後に、私はそのような「モラトリアム人間」とは無縁の真摯な求道者であると思っておられる多くの大学院生諸氏には、自ら信じる目標を目指してただひたすら邁進していただくことを期待する。