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熊本熊的日常

日常生活についての雑記

娘へのメール 先週のまとめ

2008年10月05日 | Weblog

元気ですか? 十月祭は無事終わりましたか?

君からもらった東北土産のペンケースは早速活躍しています。きんつばは東京にいる間に食べてしまいました。おいしかったです。どうもありがとう。

自分の中学生時代を振り返ると、やはり体育祭、文化祭、合唱コンクール、文集作成などがありました。文化祭がどのようなものだったか記憶が無いのですが、文化祭とは別に校内でクラス対抗の合唱コンクールがあり、中学の3年間、毎年私は指揮者を務めました。規定曲と自由曲の2曲を歌い、校内の先生方が審査するものなので、その評価はいい加減なものです。1年の時は無冠でしたが、2年と3年で優秀賞を連覇した記憶があります。何年の時にどの曲という記憶はありませんが、「翼をください」「とびうおの歌」「大地讃頌」はいずれかの年のいずれかの曲に入っていたと思います。

文集は学年末の発行へ向けて年末から年始にかけて原稿を集めて編集作業をするのですが、これも3年連続で編集委員に名を連ね、2年の時に編集長を務めました。この時は編集長特権で担任教師を糾弾する文章を載せて物議を醸しました。もし、このときの文集が実家の物置にでもあれば、今度見せます。ちなみに、1年の時には自由詩を書き、3年の時にはつまらないものを書きました。

さて、私は予定通り9月30日にロンドンへ戻りました。こちらはもう東京の冬のような気候です。地図を見ればわかるように、ロンドンは東京よりもずっと北に位置しています。それでも大西洋のメキシコ湾流のために温暖なのですが、そうは言っても北海道よりも北ですから、空気はそれなりです。まだ日中の気温は10度を超えていますが、そろそろ通勤の時に手袋をしようかどうしようか考え始めています。そのくらい空気が冷たく感じられるようになりました。

東京にいる間から今日までのあいだに読んだ本は以下の通りです。

ヨシフ・ブロツキー「ヴェネツィア」
ナタリア・ギンスブルク「ある家族の会話」
筒井康隆「家族八景」
川端康成「雪国」
アントニオ・タブッキ「インド夜想曲」

筒井康隆は友人が最近読んだと言って熱く語っていたので、「どれどれ」と思って読んでみました。これが発表された1972年においてはそれなりの衝撃がある内容だったのかもしれませんが、今読んでも陳腐なだけで、娯楽小説としては気楽に読めて楽しめますが、それほど深い内容があるとも思えませんでした。

「雪国」は1937年に発表された作品ですが、心理描写や風景描写が巧みで、今の時代の作品としても十二分に通用するだけの内容もあります。時間の淘汰を経て残る作品には、残るだけの理由があるものです。今、君が読んでも面白くないでしょうが、いつか必ず読んで欲しい作品の一つです。

東京にいる間とロンドンへの飛行機のなかで、以下の映画を観ました。

「おくりびと」
「アキレスと亀」
「グーグーだって猫である」
「コドモのコドモ」
「トウキョウソナタ」
「続 三丁目の夕日」
「陰日向に咲く」

どれもそれぞれに面白い作品でしたが、君の感想を聞いてみたいのは「コドモのコドモ」です。まだ公開されたばかりですので、今は映画館でしか観ることができませんが、そのうちDVDが出るでしょうから、そうしたら借りて観てください。

「おくりびと」は今年のモントリオール映画祭でグランプリを獲得した所為もあり、人気のある作品ですが、私はいろいろな面で違和感を禁じ得ませんでした。なによりも話がきれいにまとまりすぎているのが不自然に思われます。

「アキレスと亀」は好きな作品です。監督が北野武ですから、人によっては不愉快に感じる表現も少なくないのですが、人はどうしたら強く生きることができるのか、ということが上手く表現されていると私は思います。私は映画監督としての北野武が好きで、その作品をいろいろ観ていますが、そうした過去の実績に基づいた期待を裏切らない作品でした。

「トウキョウソナタ」はカンヌ映画祭で「ある視点賞」という賞を獲得した作品です。家族が崩壊していく作品なのですが、見方を少し変えると、崩壊した瓦礫のなかから新たな希望が生まれる作品でもあります。イギリス映画で「リトル・ダンサー」という作品があるのですが、これに似ていると思いました。「リトル・ダンサー」は良い作品ですので、機会があったら是非DVDを借りて観てください。

もうすぐ中間試験ですね。しっかり勉強してください。今、君に取り敢えず必要なのは一見するとどうでもよいような知識です。それ自体はこれから先も殆ど役に立たないかもしれませんが、未知のことを学習するという行為や既知の知識で未知の問題を解決するという訓練は必要なことです。わからないことはわからないままにせず、わかるまで先生に質問してください。わからないことがわかるということも大切ですし、先生という自分とは違った種類の人間と会話をするということもとても大切な経験です。

では、また来週。気候の変わり目で体調を崩しやすいので気をつけてください。


フェルメール 3点

2008年10月04日 | Weblog

一時帰国の時に日本で手にした芸術新潮にフェルメールの特集記事があった。そのなかで、ロンドンにKenwood Houseというものがあり、そこにフェルメールの作品があることを知った。別にフェルメールが好きなわけでもないのだが、フェルメールが飾ってあるほどのところで、自分が知らない場所が目と鼻の先にあるというのはなんとなく気になるので出かけてきた。

Kenwood Houseには絵画がたくさん飾られているが美術館というわけではない。どのような由来の建物なのか知らないが、1925年にEdward Cecil Guinness, first Earl of Iveaghという人がこの屋敷を購入し、現在あるようなコレクションを集めたのだそうだ。この建物はEnglish Heritageのひとつであり、建物自体も保存の対象となっている。内装や外装を見るだけでも老朽化が著しいのは明らかで、現在は建物の一部が足場に囲まれて補修作業が行われていた。

建物は2階建で、1階の大部分と2階の一部が公開されている。その殆どの部屋に絵画が飾られており、特に2階には肖像画ばかりが並んでいる。イギリスは並外れた肖像画好きの国だということを以前何かで読んだ記憶がある。肖像画が自分の先祖のもので、それがたくさん並ぶのは、それだけ自分の家が由緒正しいということを意味するから、ステイタスとして肖像を残すのだそうだ。オークションなどでも肖像画の売れ行きは良く、購入するのは成金とホテルが多いのだそうだ。自分と縁もゆかりも無い人の肖像を飾ってどうするのかと思うのだが、家に肖像画が飾れているということに意味があるのだろう。

以前、力のある作品は遠くから見てもすぐにそれとわかる、というようなことを書いた(2008年8月10日 ナショナル・ギャラリーを短時間で見学する法)。ここで改めてそのことが確認できる。薄暗い部屋に大小様々な絵画が飾られているのだが、部屋に入った瞬間にフェルメールの作品とレンブラントの自画像はすぐにわかる。私は、今日初めてこの「The Guitar Player」という作品と対面した。それでも、壁を一見するだけで、それがただならぬ作品であることがすぐにわかるのである。尤も、フェルメールの作品のなかでは、この作品の出来は良いほうではないような気がする。色彩や光の感じはフェルメールだが、全体としては描写が粗く、フェルメールらしい緻密さに欠けているように思われる。

実は、この粗さが気になったので、このあとNational Galleryに足を運んで、「A Young Woman seated at a Virginal」と「A Young Woman standing at a Virginal」を観てきた。やはり人物の顔とか衣服の皺とかの表現がGuitar Playerはあまい感じが否めない。

なにはともあれ、とりあえず観ておくべきものを観たという爽やかな気分が残る一日となった。


ロスコの部屋

2008年10月03日 | Weblog
先日、時差ぼけで眠いのを我慢して、仕事帰りにTATE Modernに寄ってロスコ展を観てきた。私にはどこが良いのかわからないが、平日の夜間でしかもTATEの会員限定であるにもかかわらず、会場入口には行列ができるほど賑わっていた。勿論、こういうものが好きで来ている人も多いだろうし、私のように素朴な好奇心に駆られているだけの人のいるだろうし、社交の場として利用している人もいるだろう。しかし、なかには投資対象として美術品を見ていて、その勉強のために来ている人も案外多いのではないかと想像している。

TATEに足を運ぶようになって1年になるが、傾向としてはTATE Britainで開催される展覧会よりもTATE Modernのほうが観客動員力が強いように感じるのである。Britainに比べてModernのほうがやや立地が市街地寄りであるという所為もないわけではないだろうが、展覧会の内容が大きな要素であるように思う。現代美術というのは、いろいろな意味で身近なのだろう。

ロスコは、そのキャリアの前半においてはシュールレアリズム風の作品を描いていたが、後半は専らこの展覧会に出品されているような色の濃淡だけの作品に徹している。しかも、彼は自分の作品を展示する際には、他の作家の作品と一緒に並べないで欲しいという要望を出している。確かに、彼の作品はカーテンとか壁紙のようなもので、部屋のなかの複数の面、できれば四面全てに並べることで、その部屋全体の雰囲気をプロデュースするようにできている。

日本でも佐倉の川村記念美術館にロスコ・ルームがある。私は美術の門外漢だが、敢えて言わせてもらえば、ここの展示は少し濃密過ぎるような気がする。もう少し大きめの空間に、もう少しおおらかに展示したほうが、観る人に身近なものを感じさせるのではないだろうか。あれでは窮屈でゆっくりできない。もともとレストランの壁を飾るための作品だったのだから、そのあるべき姿というものを想像できるような工夫があってもよいのではないかと思う。

さて、TATEのロスコ展だが、これは小さな習作から巨大な作品まで多数揃えられ、展示の部屋も小さなものから大きなものまで9室を使ってロスコの世界を堪能できるようになっている。シーグラムビルの社員食堂の壁面を飾るはずだった作品群も、その食堂の模型とともに展示されている。絵そのものではなく、それの組み合わせと配置の仕方を含めて作品とするというところが一般の絵画とは違うところだ。カーテンや壁紙のようなものと私は思うのだが、美術の世界では画期的な作家であるらしい。自分の家を新築したり新しい家に引っ越したりするとき、カーテンや壁紙に思い悩む人も多いだろうし、それが楽しいと感じる人もあるだろう。そのときに、既製品の枠を超えられないのが一般人で、自ら創造してしまうのが芸術家、とも言えるような気がする。

「雪国」

2008年10月02日 | Weblog
恋とはこのようなものだろうか。はじめは旅先での行き摺りの関係でしかなかったのだろう。それなのに男のほうは、なんとなく心に引っ掛かるものを感じ、女の様子を見に戻ってくる。しかし、女に会うという明確な意志があるわけではない。女の方も感じるものがあるようで、再会を素直に喜ぶ。互いにただならぬものを感じながら、さらに一歩踏み出すほどの決断はせず、無為に時間を遣り過ごす。

煮物を作るとき、一旦火からおろして冷ますと、味が深くしみる。人の心も、少し時間や距離を置くと、相手に対する気持ちがそれまでよりも強くなるものなのだろうか。強くなることもあるだろうし、忘れてしまうこともあるだろう。強くなるのなら、それが縁というものだ。

そこへ別の女が現れ、男はそちらも気になり始める。その新たな登場人物がふたりの関係に影を落とし、人の心の三体問題のような展開を予感させつつ物語は終わる。その展開が、情景描写の妙と相まって、なぜか人の心の美しさを感じさせるから不思議である。この作品の冒頭は有名だが、全編を通じて風景描写が美しい。

先日読んだ新潮文庫版「山の音」には「この作品は昭和29年4月筑摩書房より刊行された」と書いてあったが、新潮文庫版「雪国」の巻末にある年譜によれば、昭和24年9月とある。同年譜には「雪国」が昭和12年6月とあるので、いずれにしても「山の音」と「雪国」の間には戦争を挟んでかなりの時間が経過している。この間に文体が変化していることに驚いた。

「トウキョウソナタ」

2008年10月01日 | Weblog
あまりにあたりまえの風景を見て驚いた。今でも家族という人間関係が特別なもので、そこは安住の場であるべき、という幻想を抱いている人は少なくないだろう。しかし現実の世界では、些細な理由で親が子を、子が親を殺してしまう事件はもはや珍しいものではない。殺さないまでも、実質的に育児を放棄してしまっている親はそこここにいるだろうし、家族がいるにもかかわらず独居老人が死後数週間そのままという事態ももはや事件ではなくなってしまった。

家族のそれぞれが口に出せない秘密を抱え、表向きは体裁を取り繕いながら生きている、その本音と体裁の二重生活の世界を描いたのがこの作品である、とみることもできるだろう。しかし、それではあたりまえすぎて映画にはならない。香川照之、小泉今日子、役所広司といった芸達者が中心となっていることでかろうじて観るに耐える作品に仕上がっていると言ってもいいかもしれない。

ところが、主人公の家族の二男に焦点を当てると、この作品は「リトル・ダンサー」のような成長譚になる。そうなると、彼の学校での様子とか、教師とのやりとりのエピソードも重みが増す。題名の「ソナタ」も生きる。崩壊する家族も重要な舞台装置となり、表向きのメインキャストは強力な脇役に転じる。掃き溜めのような救い難い世界から、何の脈絡もなく才能ある若者が生まれることで、救いの無い物語のように見えていたものが、人生は捨てたものではないと思えるようになるのである。最後は「月の光」の演奏シーンだが、まるで月ではなくて日が昇るのを眺めるような、希望を感じさせるものに見えた。