熊本熊的日常

日常生活についての雑記

落語

2008年10月26日 | Weblog
You Tubeで落語を聴いた。桂枝雀「時うどん」、古今亭志ん朝「愛宕山」「大工調べ」、金原亭馬生「目黒のさんま」「親子酒」、立川談志「まんじゅうこわい」などである。さすがに馬生・志ん朝兄弟は、そう思って観る所為か、似た空気のようなものが感じられる。

You Tubeのタイトルに落語を「comic storytelling」と表記したものがある。「落語」を英語に訳したつもりなのだろうが、こういう語彙をあてる奴は落語というものを全く理解していない。尤も、日本人ですら、落語は単なるお笑い芸だと思っている輩が多いので仕方がないかもしれない。

落語の背景には仏教的な因果応報や輪廻の思想がある。古来、日本では宗教と生活と娯楽を一体とする生活構造があり、日本人の心的世界に法芸一如という姿勢があった。今でこそ能や歌舞伎は高尚な芸術のようになってしまったが、もとは大衆娯楽だ。芸人は土地の生産活動とは無縁の世界を生き、だからこそ自己の生存を賭けて芸を磨き、生産活動に関与しなくても生きていけるだけの存在価値を己に付与すべく精進したのである。そこには勿論、高度な技術が要求されるが、それ以上に霊的とも言える精神性の高さが要求されたのである。話芸とは説経や法話に通じるものなのである。

間の取り方であるとか滑舌の良さということは表層のことでしかない。言霊という言葉があるが、落語は単なるテキストではなく、そこに拠って伝わる話し手の全人格が問われる。表層の技術は訓練をすれば誰でもある程度は身につけることができるが、人格となると誰でもというわけにはいかない。それは時間をかけさえすればなんとかなるものでもなく、やはり生まれ育った文化や持って生まれた資質に拠るところが大なのである。

だから、同じ話であっても、名人と称される噺家の話は何度聴いても心に響くのである。話だけではない。枕のなかのくすぐりでも、本当に優れたものは何度聴いても面白いし、いつまでも記憶にとどまる。人情噺であれ滑稽噺であれ、たとえ怪談であっても、聴いた後に心が洗われたような気分になる。ひとたびそういう体験をしてしまうと、もう病み付きになってしまう。