熊本熊的日常

日常生活についての雑記

スケスケズボン

2008年10月22日 | Weblog
気がつくとズボンの生地が薄くなって今にも破れそうな部分が何カ所もあった。購入してから10年は過ぎているので仕方がない。穴があいたとか、何かに引っ掛けて破れたというのなら、取り繕いようもあるのだが、生地が全体的に薄くなったというのは手の付けようが無い。

先日は通勤途中に突然、ズボンの裾が裂けた。片脚だけベルボトムのようになりながら、そのまま出勤し、とりあえず職場でホチキス止めをした。これも生地が薄くなって裂けてしまったので、帰宅後、ぼろ切れとして仕舞っておいた。

デスクワークなので、どうしてもズボンの膝が出てしまいやすい。それで、そういうことを気にしなくてもよいように、ジーンズやチノパンなどの木綿製品を愛用している。比較的丈夫な製品だとは思うのだが、それでも10年以上も使い続ければ、生地が摩耗するのは当然のことだ。これでズボンを2本立て続けに廃棄することになったので、帰国目前にして衣類の補充が必要になるかもしれない。それでもまだ、20年前に購入したウールのズボン2本を含め数本のズボンがある。我ながら物持ちの良さに感心する。

体型を一定に保つというのも、無駄をなくす上では重要なことである。世間では、メタボだのダイエットだのと賑やかなことだが、体型を一定に保つというのはそれほど難しいことではない。栄養のバランスを考え、調味料や脂肪分の摂取を控え、おいしいものをいただく。ただそれだけのことである。おいしいというのは、それぞれの食材に応じてきちんと調理をしたものというだけのことだ。きちんと調理がされていなければ、おいしくない。おいしくないと、とりあえず口に入れるだけで、味わうということをしなくなるので、必然的に咀嚼がおろそかになる。咀嚼がおろそかになると、満腹中枢が十分に刺激されないので、食べる量が増える。食べた分に見合うだけのエネルギーの消費がなければ、過剰に摂取したものが体内に蓄積される、つまり太る。簡単なことである。

もちろん、体質というものもある。それぞれの人にふさわしい体型というものがあるだろう。それを一律に体脂肪率何パーセントなどと騒いで、食べたいものを我慢してみたり、おいしくないものを無理に口にするというのは、単なる教条主義の奴隷に成り下がっているだけのことだ。

それでも、体型というのは、その人の生き方の一端を表現していると思う。生き方の何を表現しているか、ということはここでは書かない。ただ、体型というものも、その人の思想の一部だと思うので、自分は体型の維持には、神経質にならない程度に注意は払っているつもりである。生地が摩耗するほど長期に亘って衣類を使用し続けられるというのは、自分としては、満足すべきことなのである。