熊本熊的日常

日常生活についての雑記

いただきます

2010年06月22日 | Weblog
私はヤモメ暮らしだが、自炊をしてひとりで食事をする時でも自然に「いただきます」と声に出す。食べ終われば「ごちそうさまでした」と言う。習慣と言ってしまえばそれまでだが、自分が口にするものにかかわった全てに対して感謝しているつもりである。食材の生産者や加工者、運送業者、水道光熱事業者、などのありとあらゆる人々、自然の恵みといったものが目の前にあるご飯や料理の背後を支えていると思うと自分が居る場所から宇宙の果てまで一気につながるような心持になる。自分の口から始まる果てしない食物連鎖を想像すると、それは感謝とか有り難さというようなものではなく、ただただ驚異だ。

誰でもそうなのかと思っていたが、そうではないらしい。以前、ある小学校で、給食の時間に児童に「いただきます」と言わせるのはおかしい、というクレームをつけてきた母親がいたのだそうだ。彼女の言い分としては、給食費を支払っているのだから「いただく」というのはいかがなものか、というのだそうだ。この手の発想しかできないようなのが人の親をやっていると思うと背筋が寒くなる。

確かに、我々の生活は市場のメカニズムのなかで営まれている。人により、文化により、時と場合により、様々な価値観があるのだが、個別に対応していては世の中が円滑に回らないので、便宜的に貨幣価値という単一の尺度をつかって不特定多数の利害の調整と経済行為を行っている。物事が複雑化すると、本来の目的が見失われて手段が自己目的化するのはよくあることだ。世の中がゼニカネで動くのは、貨幣というもののそもそもの在りようが忘れ去られ、それが唯一絶対の尺度であるかのような考えが蔓延しているからだろう。だから、金銭の授受によってあらゆる種類の関係性が均衡を得る、と考える人がいることに何の不思議も無い。給食費を支払ったのだから、その対価として給食を食べるのは当然のことであるのに、殊更に「いただく」などと言わせるのは、均衡していたはずの関係を乱すことになる、という理屈はわからないではない。しかし、給食と給食費の関係は給食という商品の供給とその消費という表層のことにすぎない。しかも貨幣価値による換算はあくまでも便宜的なものであって、それだけが当事者間の関係を表現するものでもない。金銭による決済で完結できるのは、社会の一応の安定の必要最小限の部分でしかない。だからこそ、人の文化には社交が欠かせないのである。

「社交」というと、愛想よく誰とでも付き合うことをイメージするかもしれないが、もっと単純に他人や社会との交わりのことである。人に我がある限り、その我を表現するという欲求が付いて回る。時として、それが他人との衝突になることもあるが、人それぞれに歴史や文化があるのだから、その表現は多種多様であって当然だ。公序良俗を犯さない範囲で自分の我を抑え、他人の我を認めるという姿勢がなければ、おそらく毎日が窮屈で苦痛になるのではないだろうか。金銭だけが唯一絶対の価値尺度というようなことで、果たして自分が居心地の良い社会生活を営むことができるのだろうか。給食費を払ったのだから「いただきます」は不要という発想の背景に、引き篭もりや無差別殺人と同じ根を感じる。恐ろしい時代になったものである。