熊本熊的日常

日常生活についての雑記

表現者たち

2010年06月26日 | Weblog
留学先の同窓会組織で知り合った人がアートフェスティバルに出展するというので、その作品を拝見しにACTへ出かけてきた。会場には出展者本人もおられたので、作品を前にしていろいろお話を伺うことができ、たいへん愉快なひと時を過ごした。

信濃町駅から会場へ向かう道には、自分と同じ目的地を持って歩いている人の姿は皆無だった。路地に入り会場の建物が視界に入ったとき、その建物の前はおろか、路地自体に人影が無い。開催日を間違えたかとも思ったが、会場建物入り口には受付が出ていた。会場の2階のほうからは大勢の人がいる雰囲気が階段を降りて伝わってきている。ほっとして、受付を済ませて2階の会場に入ると、そこは別世界だった。

所謂アーティストとして生活することは容易ではない。よほどの才能と幸運とに恵まれない限り無理である。しかし、世の中には誰もが知っているようなブランドには背を向け、ひたすら自分だけのものを求めている人は少なくない、らしい。そんな市場がどれほどあるのか知らないが、以前に読んだ「小さな雑貨屋、はじめました」という本に紹介されていた雑貨屋経営者も異口同音にどこで誰が作ったものなのか使っていたものなのかわからないような古道具類や手作り品といった独特の味わいのある商品に根強い需要があることを語っている。「味わい」というのは、物を単に物理的存在として見るのではなく、その背景にある物語とか作り手の想いといったものを自然に想像する使い手側の姿勢が反映された在り様だ。物それ自体に「味わい」という物性があるわけではない。そういうものの見方のスタイルを持った人たちの層のようなものが確かにあって、それがそれぞれの時代の表現のようなものを創りあげていくのだと思う。

ところで、今日の会場の様子だが、大変盛況に見えた。作品を購入する姿もあり、製作者と購入者との直接対話というのは、特にこのような商品の場合は商品の一部と言ってもよいほどに重要なものだとの認識を新たにした。勿論、どれもこれも感心するようなもの、というわけにはいかない。それでも、単に作品の物理的な部分だけではなく、作り手と観客が作品を前に何事かを語り合う場がどれほどあるかということは、その社会の豊かさの指標にもなり得るのではないだろうか。初対面の人と自分の想いを語り合う、語り合う何事かを持って生きる、というようなことが当たり前にある状況が文化というものではないかと思う。