くまぐー日記

くまさんの電脳室リポート

続歴史開眼

2006年11月06日 | Weblog
大野には帆船大野丸がつなぐ大野屋サテライトオフィスを各地に形成していたようで、蘭学を通じてインテリジェントなコミュニケーションネットワークが存在していたという。

そのビジネススタイルを復活させようと「平成大野屋」というプロジェクトができたようだ。 大野丸が送り出した開拓民の屯田地はサハリンにまで及んだ。維新の函館戦争にまで出兵要請されたのだから大野丸はれっきとした軍事用船舶としても機能したのかもしれない。

土井利忠の「大野藩洋学館」ネットワークは医学にもおよぶ。小浜藩医杉田玄白の孫、杉田成卿もその一人。特に、彼の言葉には現代人にグサリとくるものがあると思った。

  「人は生きるために食事をする。しかし、食べるために生きるのではない。」

利忠が作った藩校が「明倫館」であり、一番町で種痘を実施して「済生館」を作った。明倫中学や済生会病院の語源はここにあったのだ。

そもそも平山城「大野城」を築城し、京都風の6列6行の通路で区画した25個の畳状ブロックになる街のデザインを作り上げたのは信長の家臣金森長近であった。

一向一揆を平定するため寺院を破壊し、信徒を殺戮した信長から譲り受けた越前の領地を再構築するに際し、かれは敷地の最縁部に各宗派の寺院を配置して単一宗派による求心力を分散した。

多くの寺院が並ぶ寺町として現在に至っている。後に長近が転封された飛騨の高山城はどういう築城形態をとっているのか行って見たくなった。

まだまだ言い尽くせないイメージを湧き上がらせてくれたその日の数時間は予想外に充実していた。勝山を通って帰路に着いたときはもう夕刻。郷土史の発見に興奮した想定外の一日でした。


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