◾️昨日帰宅して今日の1時にイオンのcafe大家族で会う約束をした。iPadの充電コードをゲアンに忘れてきたようだ。慌てた。何もできない。タイン君に送ってもらうように頼んだがなければ勉強できないのでセルラフォン店で購入しようと思い、朝でかけたがまだ閉店していたのでインドシナプラザのATM、さらにCITIBANKの支店ATMでお金を下ろして帰宅。1時前にcafe大家族にいくと臨時閉店。店前のテーブルで林さんを待って2人で僕の家に行く。お土産のバインミーを2人で分けて食べて色々積もる話を、、、。
林さんもかってVSLで勉強していた時は同じフオン婆さんの家に住んでいた事を知った。当時僕がいた部屋には安倍首相の女性通訳が勉強していたと言う話は興味深かった。
偏差値の話で、林さんの学校上司に平均点を70点にしろと言われた話を聞いた。彼は自分の評価基準を変えろと言われたように感じたようだが、それは誤った偏差値観であって学校経営の観点から20点下駄を履かせようとする方針に誤りがあるわけではない。偏差値は個々に異なる先生の評価基準を標準化するもので学生の評価を標準化するものではない。世間に流布する誤った偏差値観はこれを逆に誤解していて、創造性を育む教育を阻害する原因のように言うが標準化の対象は先生のばらついた評価基準であって本末転倒している。教育の歪みは教師側に原因があり、それを”偏差値”のせいにされては甚だ迷惑である。人は工業製品とは違う、と言って納得する人がいることが僕には理解できない。人と製品が違うのは当たり前、しかし評価は同じでしょう。林先生の上司の指示は試験をもっと易しいものにしなさい、偏差値は採用しませんと言ったに過ぎない。先生の評価基準の変更を迫るものではない。先生が自分の評価基準を偏差値と履き違えていたことが誤りなのだ。日本の小学校の5段階評価の基準が統一できないのもベトナムの教育者上司の考えも同根。偏差値を知る人も知らない人も偏差値を嫌う。これが評価の現実。偏差値を極める人がいない。評価は教師1人の独権ではなく民主的に全員が全員の評価をすれば誰も文句がないはず。かかる評価基準が僕の「みんなの偏差値」。これを広めたい。