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仏教受容期にはどのような経典が読まれたか:門田誠一「仏教伝来期の経典とその系譜」

2023年06月21日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子に関連する学問のうち、この15年ほどで進展がいちじるしいの分野の一つは考古学でしょう。韓国や日本での発掘成果により、様ざまなことが明らかになりつつあります。

 東アジア諸国におけるそうした発掘成果に注意しつつ、仏教受容期の日本について論じたのが、

門田誠一「第一章 仏教伝来期の経典とその系譜-出土文字資料による検討-」
(門田『出土文字資料と宗教文化』、佛教大学、2022年)

です。

 後代になって編集された『日本書紀』や『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』などの文献資料だけで仏教受容の状況を判断するのは危険であり、出土文物と文献の記述がどの程度、一致するかを確かめる必要があります。

 その点、韓国ではこの10数年で寺院やその遺跡から文物の発見が続いており、これを参考にすることができます。王興寺と弥勒寺からは、金銀銅の多重の舎利箱が出ていますが、その所依経典としては、原始経典の『涅槃経』における釈尊の葬送に関する記述があげられるとします。

 また、同様の多重の舎利函については、中国では百済仏教の手本となった梁の長干寺の愛育王塔の舎利の由来譚にも同様の記述が見えると説きます。

 その梁の武帝は、大乗の『涅槃経』を信仰し、また『愛育王経』に見える愛育王の仏教信仰を手本としていたことが知られています。これらが百済にもたらされたのです。

 そのため、百済の舎利崇拝については、原始経典の『涅槃経』と大乗の『涅槃経』を参照したと見られるとします。ところが、日本の場合、仏教受容期には『涅槃経』や『愛育王経』の直接の影響は見られず、聖徳太子の三経義疏にしても、『維摩経』『勝鬘経』『法華経』の注釈であって、梁代に流行していた経典ではあるものの、『涅槃経』や『愛育王経』ではないと述べます。

 このため、三経義疏の場合、『涅槃経』の代替として「同様に悉有仏性を説く短編である『勝鬘経』」があてられたとする見方があるとして、私の『聖徳太子ー実像と伝説の間ー』を挙げたうえで、「三経義疏に関する記述は、聖徳太子による編纂が仮託であったにも関わらず、百済からの仏典伝来の様相よりも、むしろ『日本書紀』編纂時点では、これらの経典が重視されていたことを反映しているのであろう」と述べます。

 拙著を引いてくださってありがたいのですが、あの書き方だと私は仮託説であるように見えますね。もっとも、あの本の段階では、藤枝晃の中国撰述説を批判しただけであって、太子の作だとは論じてませんでしたが。

 門田氏は東アジアの出土文物の研究者ではあっても仏教学者ではないため、上記の説明を含め、やや不適切な点が目立ちますね。

 まず、大乗の『涅槃経』と「同様に悉有仏性を説く短編である『勝鬘経』」とありますが、『涅槃経』と『勝鬘経』はともに衆生の身の中に仏の素因があるとする立場ですが、『涅槃経』は仏性と如来蔵、『勝鬘経』は如来蔵を説いており、「悉有仏性」を説いたのは『涅槃経』だけです。

 ただ、大乗の『涅槃経』は北本は40巻、梁の地で編集した南本の『涅槃経』にしても36巻あります。梁で『涅槃経』と並んで尊重された『大品般若経』は20巻です。それに対して、三経義疏の場合、『法華経』は7巻、『維摩経』は3巻、『勝鬘経』は1巻です。三経義疏の作者は、『涅槃経』を尊重した学派の注釈に基づいてますが、大部の『涅槃経』そのものは読んでません。

 ただ、「聖徳太子による編纂が仮託であった」と断定されてますが、真作と見て良いことは私が論証してきています。また、『日本書紀』編纂時も『涅槃経』と『愛育王経』が特に重視されたことはありません。

 百済は武帝に『涅槃経』の注釈の下賜を求めており、これは恐らく武帝の注釈を下賜してくれるよう頼んだものと見られますが、受容期の日本はそこまで至っていなかったと見るべきでしょう。そもそも、仏教導入と同時に、紙や筆を作り始めているような状況ですし。

 なお、飛鳥寺の塔から出た埋蔵遺物は、古墳の副葬品と類似しているため、仏を神と見る段階、古墳祭祀をそのまま仏教祭祀に置き換えたような状況だったと考えられてきましたが、門田氏は、百済王室の寺からも同様の宝物が出ているため、仏教遺物と説いています。こうしたことは、王興寺の発掘調査で明らかになってきたことですね。

 このため、飛鳥寺の舎利函は失われたものの、百済のそうした状況を反映したものとし、『日本書紀』欽明13年に百済から伝えられたとされる「釈迦仏金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻」とあるのは、後代の潤色を含むとしても、「百済の舎利埋納の所依経典である『涅槃経』が含まれていたと考えられる」としていますが、これは議論が飛躍しています。武帝が尊重したのは36巻もある大部の『涅槃経』であって、20巻もある『大品般若経』についても講義しています。

 飛鳥寺の失われた舎利函が、百済のものと同様であったろうという推測は良いですが、「若干巻」とある以上は、小部の仏伝経典や、仏教を信じる功徳を強調した小部の大乗経典でしょう。

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