このところ、聖徳太子の周辺の人物に関する論文の紹介が続いてますが、今回は、
遠藤慶太「歴史叙述の中の『継体』」
(『史学雑誌』第129巻第10号、2020年)
であって、継体天皇です。遠藤さんについては、以前、その『日本書紀の形成と諸資料』の紹介をしたことがあります(こちら)。
父の用明天皇や叔父の崇峻天皇、叔母の推古天皇ならともかく、祖父どころか曾祖父であって、聖徳太子とはかなり遠い存在であるわけですが、ご当人も大王家の血縁は薄かったうえ、大和の地の生まれでもなかったのですから、なおさらですね。
しかし、継体天皇の子である欽明天皇の子、敏達、用明、崇峻、推古が次々に天皇になったのであって、敏達以外はすべて欽明天皇と蘇我の稲目の娘たちの間に生まれており、天皇の家系が定まったのは、この継体天皇からとされているのですから、その意義は大きいですね。
しかも、継体は『日本書紀』で重要な位置づけになっているだけでなく、近代においても重要な存在だったと、遠藤さんは論じています。というのは、明治時代に皇室典範を制定した際、起草主任を務めた井上毅は、天皇の正当性を支えるものを血統に求め、継体天皇によって皇統が保たれたとしたからです。
すなわち、誉田(応神)天皇の五世の孫であって越前ないし近江出身であった継体が即位することによって辛くも皇統斷絶の危機が回避されたとして評価したのです。
このため、継体天皇の即位問題は、遠い古代の話ではなく、徳川将軍に代わる天皇支配を打ち出した明治期にあっては「現実の課題」だったと遠藤さんは説きます。これは、聖徳太子にもあてはまりますね。昭和天皇が聖徳太子にならい、皇太子の時代に摂政となって大正天皇の代行をしたわけですから。
継体天皇が問題になるのは、『日本書紀』は天皇の歴史書でありながら、継体天皇の没年について決定できず、531年と534年の二説をあげ、「後に勘校へむ者、知らむ」として後の判断に委ねているからです。
531年だと、次に安閑天皇が即位するまで空位であったことになり、534年だと、継体から安閑へと継承されたことになりますが、『日本書紀』がしばしば引いていて信頼性が高いとされる『百済本紀』では、五三一年に天皇・太子・皇子が死去したと記していました。
この時期に関しては、天皇並立の内乱があったとする林屋辰三郎説が大きな反響を呼びました。遠藤さんは、継体天皇が武烈天皇の妹を皇后とすることによって前の王統につながることは、五世紀に数例あり、継体はそれを踏襲していることに注意します。
こうした婚姻は、継体の子である安閑・宣化の后妃にも言えることであり、欽明天皇の場合も、宣化天皇の四人の皇女をキサキとしており、その一人である石姫から生まれた皇子が敏達天皇として即位しているのです。このため、遠藤さんは、庶兄である宣化と欽明天皇の間に深刻な対立があったと見るのは困難とします。
そこで注目されるのは、安閑こそが大兄制の確実な初例である匂大兄であったことです。『日本書紀』では継体朝に亡くなった巨勢男人は、『続日本紀』では継体・安閑朝の人物とされており、男人は二人の娘を安閑のキサキに納入れているのですが、『日本書紀』では男人の逝去記事に続けて「磐余玉穂宮・匂金椅宮に御宇しし天皇に御世に大臣として供奉した、と記されています。
遠藤さんは、これは継体朝において匂大兄皇子(安閑)がもう一人の倭王として在位していたことを示すのではないかと述べます。つまり、父子ないし兄弟による共同統治を経て、欽明天皇の単独在位という形に移行したのではないかと推定するのです。
実際、武田幸男氏は、524年の年紀がある新羅の石「蔚珍鳳坪碑」が、寐錦王(法興王)と葛文王(王弟の立宗)の二王が併存して刑罰を告知していることから、この時期の新羅は二重王権大成と見ています。
遠藤さんも、これを考慮し、大兄制の仮説を一歩進めた形で継体天皇と安閑天皇のあり方を考えてみることが有効と説きます。王が重複していても、後に形成された王統譜では、父子・兄弟としての継承という形で記されるのであり、それが『百済本紀』のような外国の史書の記述によって紀年の矛盾が生じたのではないかと推定するのです。
遠藤さんは、さらに後代の資料における継体天皇のイメージを検討していってますが、上記の推定は、推古天皇とそれを補佐する弟のような甥たる聖徳太子の位置について考える際も、参考になると思われます。
いずれにしても、国家、国境、国王などについて、現代の常識で判断するのは危険ということですね。遠藤さんは、林辰三郎が当時の状況を内乱と見たのは、南北朝の帝位並立を意識して論じた師の喜田貞吉の説の影響としています。
ここで明治期に戻ると、皇室典範の審議では、皇族の範囲をや称号に関して盛んな論義がなされた由。三条実美が五世以下の皇族は賜姓による臣籍降下を主張したのに対し、井上毅は継体天皇の例を考慮し、「百世」であろうとも永世皇族主義をとって皇位継承に不測の事態が生じないようにすべきだと論じ、大議論の末、多数決によって井上の原案が承認されたそうです。これは、皇位継承が問題になり、宮家復活の議論もある現在にも関わる問題ですね。
問題は、こうした議論によって継体天皇に対する関心が高まった結果、継体を扱った世阿弥の創作能によって生まれた継体関連の伝承が着目されるようになったことです。明治11年(1878)10月に北陸を行幸した明治天皇は、福井を訪れた際、継体天皇の事績調査を命じたそうですし、越前では継体天皇が暮らしたという伝承によって地名変更の願いが出され、記念碑も建てられるに至ります。
つまり、史実がテキストに残されるのではなく、テキストが史跡を生みだしたのです。これは古今東西で見られる現象ですが、捏造石器や捏造文書に基づく史跡づくりは、現代でも複数の地方自治体でおこなわれているのですから、注意が必要ですね。