聖徳太子研究の最前線

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上宮王家擁護の境部摩理勢は馬子の弟で国造のクニの境界を定めた:鈴木正信「境部氏と境界画定について」

2023年06月07日 | 論文・研究書紹介

 聖徳太子関連人物で個別研究の無い例として、前々回、用明天皇をとりあげましたが、今回は『日本書紀』では「聖皇の好む所」であったと言われ、太子の長子の山背大兄を天皇候補として押し続け、蘇我本宗家によって殺された境部摩理勢について触れている、

鈴木正信「境部氏と境界画定について」
(『成城文藝』260号、2022年12月)

です。

 国造の制度を運用するには国造を任命するだけでなく、そのクニ(管掌範囲)の境界を定める必要があります。その境界は、今日の県境などと違い、交通の要所を境界点として区画するものでした。そして、その作業は、境部が担当したのであって、蘇我臣氏の同族である境部臣とその配下に編成された境部が担当したと考えられてきました。

 蘇我臣氏は屯倉制だけでなく、国造制の施行にも積極的に関与したと説いてきたのが、鈴木氏です。つまり、国造制は、国家の制度として整備されると同時に、蘇我臣氏が勢力を伸ばしていくための手段ともなっていたと見るのです。

 その境部については、「境部・坂合部・堺部・左甲部・坂合」などと表記されています。鈴木氏は、その境部が史書に登場する例を検討し、雄略紀に見える例は、坂合部がその祖先を坂合黒彦皇子に結びつけようとしたものであって史実でない可能性が高いとし、境部氏には『日本書紀』編纂に関係した人物が多いことに注意します。

 となると、最初の例は、推古8年(600)に境部臣が新羅征討の将軍に任命されたという記事です。この境部臣については、摩理勢とする説と雄摩侶とする説がありますが、鈴木氏は「蘇我境部臣」とも記される摩理勢と見ます。

 蘇我馬子は、父である稻目の娘(つまり、自分の姉妹)であって欽明天皇の妃となった堅塩媛を、推古20年(612)に欽明天皇の檜隈大陵に改葬した際、一族を引き連れ、境部摩理勢に「氏姓の本」を述べる誄を奏上させています。つまり、馬子の弟と言われる摩理勢は、蘇我の同族集団のうち、馬子に継ぐ地位にあったのです。

 一方、雄摩侶は、推古31年(623)に大徳の身で新羅派兵の大将軍に任じられていますが、推古8年の派兵の際の副将軍であった穂積臣は再任されていないことから見て、推古8年時の大将軍は摩理勢であったと鈴木氏は推定するのです。

 となると、馬子が実権を握るようになった6世紀後半に境部が設定され、それを統括する氏族として蘇我臣から蘇我境部臣が分出されたと考えるのが自然ということになります。蘇我臣氏は、ほかにも倉・小治田・久米・桜井・箭口・岸田・御炊・河辺・田口・高向などの同族を多く独立させています。

 当時の政治は豪族の氏上たちによる合議制であって、一族から1人、最大勢力の氏族からも2人までしか代表を出せませんでしたが、蘇我臣は同族を独立氏族とし、その者たちを合議の構成員として送り込み、馬子が大臣となって主導することによって勢力を強めたのです。

 鈴木氏は、このことが逆に統率をとれなくし、本宗家の孤立と滅亡を招いたと見ています。これは、このブログでも書いてきた私の意見と同じです。私の場合は、上記のような細かい経緯は検討しておらず、本宗家と摩理勢側の対立といった程度しか考えていませんでしたが。

 なお、坂合部については、多氏・阿倍氏・尾張氏・東漢氏などの系統に属していますが、鈴木氏はこれらの氏族はいずれも蘇我臣氏と密接な関係にあったことに注目します。

 阿倍氏は、馬子が守屋を討った際、その軍勢に参加してますし、馬子が推古天皇に葛城郡の割譲を要望した際、阿倍臣麻呂を使者に立てているうえ、舒明即位前紀では、推古天皇の没後、阿倍臣麻呂が蝦夷を補佐して群臣会議を主催しています。

 その境部の職掌については諸説がありますが、鈴木氏は、国造たちのクニの境界に「境(坂合)」という地名が確認できることから、そこに境部の拠点が置かれていたと推測し、境界画定をその主要な業務としていたと見ます。

 論文では、氏族の系譜や分布について詳細な検討がなされていますが、ここでは、聖徳太子に関わる摩理勢とその前後の状況だけ紹介しました。

 以前、上宮王家は、蘇我氏と守屋氏の争いの中で台頭し、蘇我氏実権時代になると、その内部抗争に巻き込まれて亡んだという見通しを書いたのですが、その正しさを裏付けてもらった感じです。