聖徳太子研究の最前線

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用明天皇の御名代と大王を支えた中部・関東の舎人:田島公「古代地域史研究・古典学の進展と『原史学』」

2023年05月16日 | 論文・研究書紹介

 これまで聖徳太子周辺のいろいろな人物に関する論文を紹介してきましたが、抜けている人物がいることに気づきました。父の用明天皇です。そもそも、単独の論文がない。そうした中で見つけたのが、

田島 公「古代地域史研究・古典学の進展と『原史学』」
(原秀三郎先生傘寿記念文集刊行会編『学縁』、2014年)

です。

 原秀三郎は、マルクス主義の立場から大化改新否定論を唱えて戦後の史学界に大きな影響を与えたバリバリの左翼学者だったのですが、後になると、神がかった皇国史観の代表であった平泉澄の弟子、田中卓の影響を受け(平泉も田中も文献研究者としてはすぐれた面もありますが)、意外にも敬神愛国を説くようになりました。

 そのせいではないでしょうが、CiNiiBooksによると、この論文集を所蔵している大学図書館は、長年勤務していた静岡大学の図書館と、勤務はしていない東大史料編纂所の図書室だけです。

 原氏が大学院で学び、学位を得た京都大学や、一時期、勤務していた千葉大学の図書館にもないのは、なぜなんだ? それどころか、国会図書館でもヒットしません。出版物、それも学術的な内容の本を送ってないのは納本義務違反ですね。

 それはともかく、田島論文は、冒頭で原氏の傘寿と瑞宝中綬章の受賞を祝ったのち、原氏の研究は大別すれば、(1)修論で扱った初期荘園の研究、(2)マルクス主義歴史学の立場からする大化改新否定論、(3)勤務先であった静岡大学周辺の遠江・駿河・伊豆を中心とした地域史、(4)(田中卓の影響を受けた)邪馬台国や古代王権の研究、ということになるとします。

 そして田島氏は、原氏の思い出を簡単に記した後、原氏の論文をヒントとして解明した例として、用明天皇の御名代の部・宮号舎人について説明していきます。

 ヤマト王権の大王については、その大王に仕える部が定められ、その地の族長の子弟などが王宮に出向き、舎人として奉仕していましたが、用明天皇の王宮の御名代(子代)として設定・伝領された部と仕えた舎人は不明でした。

 普通、大化前代の大王の御名代は、王宮のあった地名がつけられ、その宮に仕えた舎人もその地名で呼ばれています。ところが、継体天皇と用明天皇(タチバナノトヨヒ=橘豊日)については、これが不明だったのです。古市晃氏は、用明天皇の名代を「橘戸」と推定していますが、田島氏は十分な論証がないと批判します。

 そして、用明天皇の宮は磐余(伊波礼)池辺双槻宮・池辺双槻宮であることから、用明の御名代は「伊波礼部」か「池辺部」だろうと推測されていましたが、資料に見えないと述べます。

 そこで田島氏が注目するのが、王宮名が不明な宮号舎人として伝えられてきた「行田舎人」です。天平宝字4年(760)の東大寺写経文書によると、経師の一人として、「大学書博士正八位下 行田舎人千足」という人物が記されています。この他、延久2年(1070)の出雲国の税に関する文書に、「外従五位下 池田舎人安子」なる人物が見えます。

 用明天皇の磐余池辺双槻宮と推定される地の近くに、「生田(いけた)」や「西池田」「東池田」「南池田」などの小字があることから、田島氏は、「行田舎人」の「行田」は「いけた(生田・池田)」であって、これが用明天皇の宮号舎人であったと推測します。

 そうなると興味深いのは、壬申の乱の際、大海皇子の経済・軍事拠点となった三野(美濃)国安八磨評に存在し、皇子を支える湯沐令多品治が支配していたと推定される安八郡(のちの池田郡)池田郷です。

 この池田郡は、額田郷・壬生郷・小島郷・伊福郷・池田郷・春日郷という六郷から成っており、小島郷以外は、六世紀後半から七世紀初頭のヤマト王権の大王・大后・太子の御名代に由来していることになります。

 このうち、壬生部は、特定の子女の名ではなく、大王家の子女の養育の部として成立したものであり、具体的には廐戸皇子の為に設定され、上宮王家に伝領された部ですね。

 推古天皇の最初の宮である桜井豊浦宮に奉仕した桜井舎人の生活費を供給した桜井舎人部は、上総国武射郡長倉郷に存在したことが川尻秋生氏によって発見されています。

 田島氏は、これらの発見を、地域史の研究と古典研究の融合がもたらしたものとし、原氏の研究に基づく研究法として進展を望んで論文をしめくくっています。

 こうして見ると、この時期のヤマト王権が、中部から関東までを支配し、その地の豪族に奉仕させていたことが分かりますね。山背大兄が入鹿の軍勢に攻められた時、東国に逃れて乳部(壬生)の軍勢を組織して戦えば勝てると進言されたものの、民をそこないたくないと断ったとするのは、山背大兄を美化する伝承かもしれませんが、上宮王家が東国にかなりの領地を有していたのは事実であったことになります。

 『日本書紀』の記述は、かなり伝説化されたものが多いのですが、まったくの机上の創作ではなく、その由来となる何らかの事実があったものも含まれているのです。