聖徳太子研究の最前線

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若草伽藍の金堂壁画の焼け残り破片を見てきました:斑鳩文化財センター秋季特別展

2022年11月11日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報

 急ぎの仕事が一段落したため、斑鳩文化財センターに行って焼け残りの壁画の破片を見てきました。

令和4年度秋季特別展「若草伽藍の壁画展-古代寺院の荘厳-」(10月22日~11月27日)

です。

 東野治之先生がセンター長を務めているこのセンターは、日頃はすぐ近くの藤ノ木古墳の遺物の展示が中心なのですが、法隆寺金堂の壁画の修復が終わったということもあって、この展示期間中は、若草伽藍の壁画の破片を中心として、7世紀から8世紀にかけての複数の寺院壁画の破片を展示しています。

 そうした地味な展示のため、豪華な工芸品で知られる藤ノ木古墳の遺物を見に来た人は失望することが多いようで、入り口で係の方が入館料をもらう前に、「現在はこのような展示になっていますが、それで良いですか」と声をかけてました。

 私は、もちろん入館しましたが、観光客らしき4人くらいの団体の人たちは、「じゃあ、法隆寺に行きます」と言って入らずに去っていきました。

 展示の図録はないですかと尋ねたところ、斑鳩町教育委員会?の山根惇史さんが「500円です。マニア向けの内容ですが」と心配してくれたので、「一応、プロなので」とお答えして購入しました。その山根さんも執筆している斑鳩町教育委員会:斑鳩文化財センター編の図録が、こちら。

 展示では、若草伽藍の焼け残りの壁画片と壁土と瓦、西院伽藍の旧壁画の模写、山田寺の壁画片と種々の塼仏と瓦を初めとして、これまで発見されている7世紀から8世紀までの各地の寺院跡の壁画片・塼仏・瓦などが並んでいました。こうした遺品は、その土地への古代仏教の浸透具合を示すものです。

若草伽藍(壁画片・壁土・瓦):奈良県斑鳩町
法隆寺西院伽藍(金堂旧式壁画模写):同
山田寺跡(壁画片・塼仏・瓦など):奈良県桜井市
安倍寺跡(壁画片・瓦):同
橘寺(塼仏・瓦):奈良県明日香村
川原寺跡(塼仏・瓦):同
川原寺裏山遺跡(塼仏・緑釉波文塼):同
小山廃寺[紀寺跡](塼仏・瓦):橿原市・明日香村
石光寺(塼仏・瓦):奈良県葛城市
二光廃寺(塼仏・瓦):同
日置前廃寺(壁画片・壁土・瓦):滋賀県高島市
山崎廃寺(壁画片・塑像片・塼仏・瓦):京都府大山崎町

 これだけ壁画片や塼仏が並ぶのを見たのは初めてです。成16年(2004)に若草伽藍迹の西方を発掘調査した際、焼けた壁画片を含め,焼けた壁土や瓦などが出てニュースになりましたが、この展示では、若草伽藍の壁画片については、このブログでも論文を紹介したことのある斑鳩町教育委員会の平田政彦氏が解説を書いていました。

 それによると、壁土の中心部となる木舞に塗りつける「荒土」の上に、壁を平らに整えるための約1.5センチの「仕上げ(中塗り)土」、さらに、壁画が描かれる「白土」が塗られている由。若草伽藍では、「白土」が1~3mmほどあり、後になって造営された他の寺の壁画より「壁面の仕上げ」が「しっかり行われていた」そうです。

 『日本書紀』によれば、飛鳥寺を造営するにあたって崇峻元年(588)に百済から派遣された工人たちの中に白加という名の「画工」がおり、また推古12年(604)には「黄書画師」と「山背画師」という絵描き集団が編成されているうえ、韓国の弥勒寺跡や比蘇山寺跡からは壁画片が出ているため、こうした渡来系の技術者の指導で作成されたと平田氏は推定します。

 若草伽藍よりやや遅れ、7世紀半ばに創建された山田寺では、壁画の破片が僅かに出ているほか、仏像を陰刻した原型に粘土を埋めて型抜きして焼いて作成した塼仏がいろいろ出ており、こうした塼仏を壁面に数多く張って堂内を荘厳していたと見られています。

 さらに、670年に若草伽藍が焼失した後に再建された現在の法隆寺西院伽藍の金堂は、インド調の色彩の強い唐代の仏画の影響を受けた美術的傑作の壁画で飾られていました。日本最初の本格寺院建築である飛鳥寺、それに続く豊浦寺では、壁画の破片は見つかっていません。

 ですから、壁画無しの飛鳥寺・豊浦寺、壁画で飾られた厩戸皇子の若草伽藍、塼仏を飾った山田寺、最先端の唐の仏画を描いた再建法隆寺、という順序で堂内の荘厳が発展していったのです。つまり、壁画は厩戸皇子の若草伽藍が最初であり、若草伽藍は最新の豪華な荘厳を備えた寺なのであって、『日本書紀』は斑鳩寺については焼失記事しかありませんが、崇峻朝から推古朝にかけての寺院関連の記述は、かなり史実を伝えていた、ということになります。

 聖徳太子をできるだけちっぽけな存在として描こうとした大山誠一氏は、推古朝の末年には寺が46あったという『日本書紀』の記述に基づき、「厩戸王」は都から遠く離れた地に、当時は46もあった寺の一つを建てたにすぎないと称しており、若草伽藍のことを田舎の小さな仏堂のように扱ってましたね。

 その若草伽藍とほぼ同規模の大きさで再建された法隆寺を見たことがなく、また、自説を発表した後は、自説がゆるがないように、若草伽藍の壁画片の発見や飛鳥と斑鳩を斜め一直線に結ぶ太子道の遺構の調査(こちら)など、考古学の成果については目をつぶり続けていたのか……。

 なお、若草伽藍の焼け残りの壁画片は、1cmから5cmくらいの小さな破片ばかりであって、仏像を描いた部分の一部と思われるものは無い由。川原寺跡の場合、その裏山遺跡から三尊塼仏の破片が1600点出土していることから見て、若草伽藍の壁画片のうち、仏像を描いた部分の破片は、平成16年に発見されて今回展示されている壁画片などは別の箇所に丁重に埋められたのではないか、今後、発見される可能性があると、平田氏は展示の解説で書いていました。

 上記の奈良・滋賀・京都の寺跡以外で、早い時期の壁画片が発見されているのは、色が残っている壁画片が発見されてニュースにもなった島根県米子市の上淀廃寺(こちら)、そして東日本最古の本格寺院跡である群馬県前橋市の山王廃寺跡です。仏教建築や美術に関する最新技術を独占していた大和王権との関係の強いところ、ということになるのでしょう。

 私は展示を見終えて出る際、「上淀廃寺で、色彩が僅かに残っている壁画の破片を見た時のことを思い出しました」と入り口にいた山根さんに語り、ちょっとだけ話しました。

 展示期間は22日までです。意義のある展示ですので、関西在住の方には、コロナ感染が猛烈に増える前に見ておかれるようお勧めします。