聖徳太子研究の最前線

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聖徳太子信仰は天武天皇が強めたのではない:大橋一章「法隆寺美術理解のために」

2022年08月11日 | 論文・研究書紹介

 前回とりあげた論文が掲載された論文集は最新の内容であって、冒頭の、

大橋一章「総論 法隆寺美術理解のために」(大橋一章・片岡直樹編『法隆寺ー美術史研究のあゆみー』、里文出版、2019年)

は代表的な美術史家による法隆寺美術に対する概説として、きわめて有益です。この総論では、法隆寺再建非再建論争史について詳細に検討した後、法隆寺の個々の美術について述べていますが、太子信仰についても大橋氏の見解が示されています(普段は「先生」とお呼びしており、昨年の国立博物館の聖徳太子展でもお会いして話しましたが、このブログは「氏」か「さん」で統一してますので、「大橋氏」でいかせてもらいます)。

 聖徳太子の事績を疑う人たちの中には、天武天皇による太子尊重が太子の聖人化と関わりがあるとする人がかなりいます。これは、厩戸皇子を絶讃する『日本書紀』の元となった史書の編纂を天武天皇を命じたということも一因となっていそうに思います。しかし、大橋氏は天武天皇の聖徳太子信仰を疑います。私も天武朝画期説は無理と考えるため、今回は、大橋氏の情報豊かな総論のうち、この部分だけを紹介させてもらいます。 

 大橋氏が注目するのは、法隆寺が再建される前後の時期には、斑鳩で次々に寺の整備がおこなわれたことです。しかも、再建法隆寺の金堂は、焼失した若草伽藍の金堂とほぼ同じ大きさであって、その金堂は飛鳥寺の中金堂と同じ大きさでした。飛鳥寺には丈六の釈尊像が安置されていましたので、若草伽藍もそうであったと推定します。

 このため、大橋氏は、若草伽藍は飛鳥寺に続く我が国で二番目の本格伽藍であったという点を強調します。これは、豊浦寺を無視した言い方ですが、豊浦寺は金堂の跡は発掘されているものの、五重塔や回廊や中門などの跡は発見されていないため、伽藍と言えるほど建物が整っていたかどうかは不明というほかないためもあるでしょう。また、豊浦寺は尼寺であったため、若草伽藍を飛鳥寺に続く第二の本格的な僧寺と称することは可能です。

 注目すべきは、斑鳩地域では、飛鳥寺を建立した百済由来の技術によって若草伽藍も建設した工人たちの後継者たちが、7世紀後半になっても、その技術に基づいて次々に寺塔を建立していったことでしょう。

 彼らは、中宮寺を造営し、完成は天智朝頃までずれこんだと見られる法起寺造営に取り組み、ついで天武朝前半に再建法隆寺の金堂を造営し、天武8年(679)年の法隆寺の食封停止による中断期間を経て、持統朝後半に造営を再開して五重塔を建てます。

 その中断期間は、法隆寺の塔は壁や戸口の部分を取り付けないまま放置されますが、この時期に法輪寺の三重塔の塔が起工されます。また、法起寺の三重塔は、天武14年(685)に起工式がおこなわれたものの、完成は慶雲3年(706)です。

 太子が若草伽藍と四天王寺の金堂を建てて以後、この再建法隆寺が造営される間の期間に舒明天皇が立てた最初の天皇勅願寺である百済大寺は、金堂が飛鳥寺や若草伽藍の金堂の倍近い大きでした。塔も、高さ90メートルにも及ぶ九重塔であって、桁違いに壮大な規模の寺であり、唐の技術が採用されていました。続いて建立された勅願第二号となる川原寺も、初唐の写実的な造像技術が用いられています。

 天智天皇や天武天皇時代の寺は、父である舒明天皇の寺を受け継ぐものであり、天武天皇は天武9年(680)には国の大寺以外の寺院は官治から外し、国家が与えた食封も30年に限るとし、その結果、国家の官寺とされたのは、百済大寺を移築した大官大寺、川原寺、そして特例として認められた飛鳥寺だけでした。

 法隆寺は、金堂薬師像の銘文を作成して用明天皇勅願の寺であることをアピールしたものの、認められなかったのです。大橋氏は、法隆寺はそこで方針を転換し、法隆寺を太子信仰の寺とする方針を定めたとします。

 小倉豊文氏や田中嗣人氏などは、法隆寺再建の時期は天武天皇の治世であるため、この時期に太子信仰が強まったとし、田中氏は法隆寺再建も天武天皇の発意によるとしますが、大橋氏はこれに反対し、上で述べたような斑鳩地区の寺塔の特殊な性格に注意します。つまり、再建法隆寺や法起寺・法輪寺などは斑鳩地区の太子信仰に基づいて建立されたと見るのです。

 そして、法隆寺金堂には、かつては釈迦三尊像や薬師如来像と並んで百済観音や玉虫厨子なども安置されていたうえ、法隆寺には六観音や小金銅仏など、他の寺から移された仏像が多いことから、再建法隆寺はいわば「聖徳太子記念館」とも言うべき性格のものだったとする笠井昌昭氏の説を紹介します。

 この太子信仰の寺という性格を象徴するのが、太子等身とされる救世観音像を安置するために造られた上宮王院、つまり、法隆寺東院伽藍だとするのです。

 確かに、持統天皇は法隆寺に何度か施入しているものの、天武朝には法隆寺の食封は他の寺と一律に打ち切られているうえ、再建法隆寺の建築と仏像には皇室が保有していた最新の唐の技術が用いられていないことから考えると、天武天皇が聖徳太子を尊重して法隆寺を特に重視していた形跡はないと見る方が自然でしょう。

 金堂の壁画には唐の絵画の影響がありますが、再建法隆寺の建築や仏像たちの基本は、若草伽藍を受け継ぐ百済系のものですので。

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