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唐本の御影の研究史、そもそも聖徳太子の像なのか:松原智美「御物聖徳太子二童子像」

2022年08月07日 | 論文・研究書紹介

 日本の近代美術史は法隆寺の再建非再建論争で始まりました。そうした論争を整理した大橋一章編『法隆寺美術ー論争の視点』(グラフ社)が刊行されたのは、1998年のことでした。

 そこで取り上げた問題を、最近の研究成果に基づいて書き直したのが、大橋一章・片岡直樹編『法隆寺ー美術史研究のあゆみー』(里文出版、2019年)であって、これによって現在の研究状況が分かります。このうち、「唐本の御影」という名で知られる、二人の童子を従えた聖徳太子の有名な肖像画について論じたのが、

松原智美「第十一章 御物聖徳太子二童子像」

です。研究史を詳細に紹介してあって有益です。

 まず、料紙4枚を縦に継いでおり、縦101.6センチ、横53.7センチとなっているこの絵では、太子が身につけている袍の上半身部分は、墨を刷毛ではいたような隈取りがほどこされ、輪郭線はなぞったような、途切れがちの描線が引かれています。また人物の位置が不自然であって、太子の佩刀が山背大兄の下半身を横切って描かれています。

 つまり、三人は横並びに並んでいるのか、左の殖栗王を先頭として縦並びに歩んでいるのか明確でない描き方になっているのです。また、太子の額ぎわは淡墨を用いて肌を透かせ、布の薄い質感を示すなど、写実が進んだ部分と、素朴で古様な部分が併存しています。

 そもそも、この絵は太子摂政像の一つとされていますが、他の摂政像は絵にせよ像にせよ、一人のものばかりですので、この絵の異質さが分かりますね。

 そもそも、保延6年(1140)に大江親通が著した『七大寺巡礼私記』の上宮王院の項では、「太子俗形御影一舗 件の御影は唐人の筆跡なり。不可思議なり」と記されていました。この伝承が生まれた事情は不明です。

 また、13世紀前半にまとめられた顕真『聖徳太子伝私記』では、この絵について、中央の人物が聖徳太子、向かって右が長男の山背大兄王、左が同母弟の殖栗王としたうえで、この絵は「唐本の御影」と呼ばれており、唐人の前に太子が応現したため、唐人がその姿を二篇描き、ひとつは日本にとどめ、一つは唐に持ち帰ったとされています。

 その他、百済の阿佐太子の前に現れた姿だという伝承もありますが、こうした様ざまな伝承があるのは、この絵が特殊すぎるためですね。

 この絵について、唐代の絵の影響が見られることが知られた結果、戦後になると飛鳥時代のものとする説は出ていないようです。ただ、原画があって、それを唐の絵の影響を受けて模写したとする説が大正時代からあり、模写であることを否定する説も早くから有力でした。

 この画像を直接調査して精密な研究をした最初は、昭和23年(1948)の亀田孜「御物聖徳太子御影像考」でした。料紙を精査した亀田は、四枚の紙のうち、第1段は後補、第4段も表装のために切り縮められているとし、当初は一段が9寸ほどであって、また画法も奈良時代の例と似ているため、奈良時代の作としました。

 服飾の面の研究もいろいろなされましたが、武田佐知子は、長屋王邸跡から発見された木簡に描かれている男性の像から見て、8世紀中頃までに描かれたとしました。

 この絵が疑われるようになったのは、東大史料編纂所の今枝愛真が、昭和57年(1982)10月15日の朝日新聞に文章を寄せ、御物本の右下には「川原寺」と見えると指摘し、また翌年1月7日の同紙に、会津八一が同様の構図の中国の拓本を学生に見せ、御物本は太子像ではないと説いたという話を紹介したためです。これよって、史学界では否定的な意見が有力となりました。

 ところが、平成3年に御物本を調査した東野治之氏が、「川原寺」というのは、大正時代の記録では、表具は黄色の綾智に寿・寧・康・福の字が色糸で織り出してあったとされているため、そのうちの銀糸による「康」の部分が変色したものと報告したため、今枝説は消えました。

 ただ、だからといってこの絵の像主を聖徳太子と断定できるわけではないと、松原氏は説きます。これと同じような図柄の人物を単独で描き、しかも髭がない画像が薬師寺に伝来しており、同じ図像が江戸時代末期の『集古代十種』では秦河勝の像とされていることなどに注意します。

 そして、このことは、唐代の俗人の人物画がもたらされ、それを手本として、このような俗形人物が「かつては多数制作されてたことを示唆する」と説き、これが御物本に見られる古様の新様の混在に対する回答となるのではないかと論じます。

 「多数制作されていた」にしては、残存例がなさすぎますね。しかも、薬師寺にあったという俗人図にしても単独で描いたものであった以上、三尊像のような御物本と同等に扱うのは無理でしょう。

 松原氏は、太子像と決めつけて論じるのは適切でないとし、これまでは服飾史の面の検討がなされてきたものの、絵画史からの考察は十分でなかったと述べ、X線写真などの資料があるにもかかわらず、御物本という性格上、調査の全容が公開されていないため、決定は難しいと説いて説き、作品そのものの精密な調査が必要と説いてしめくくっています。

 慎重な態度ではありますが、この論考で無視されているのは、奈良時代半ば頃までに、仏教の三尊図のような形で描かれるほど尊崇されていた俗人は聖徳太子しかいない、とする武田氏の主張ですね。有力な豪族が、先祖や父親などの肖像画を描いてそれを拝むといった習慣が奈良時代になされていた形跡はありません。最先端の技術で作成された像や絵や刺繍は、すべて仏や菩薩などであったことは、やはり考慮すべきでしょう。

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