聖徳太子研究の最前線

聖徳太子・法隆寺などに関する学界の最新の説や関連情報、私見を紹介します

中世における聖徳太子信仰の見取り図: 阿部泰郎「聖徳太子の世界像」

2011年09月23日 | 聖徳太子信仰の歴史
 先日の藝林会聖徳太子シンポジウムでは、武田佐知子先生が広隆寺の裸形着衣太子像を中心として、太子像からうかがわれる太子信仰のあり方の変遷について論じられ、私も聖徳太子について考えるには、信仰史・研究史の検討が重要であることを強調しました。その信仰史のうち、中世の雑多な太子信仰全体を見通した講演が活字になりました。

 中世文書研究の鬼である阿部泰郎さんの、

阿部泰郎「聖徳太子の世界像--中世太子宗教テキスト体系の形成--」
(『日本宗教文化史研究』第15巻第1号、2011年7月)

です。

 現在でも砺波平野の真宗寺院である瑞泉寺では、大きな太子堂で夏に開かれる太子伝会において聖徳太子伝の絵解きが行われており、説法が終わると正面内陣の廚子の帳があげられ、幼い太子の像が礼拝されます。阿部さんは、その絵解きに出会い、また能や舞曲などの中世芸能にも太子が登場し、舞楽や猿楽の芸能者たちが太子を芸能の祖としていることなどをきっかけとして、中世文学の研究を始めたのでした。

 阿部さんは、寺院文献に対する文献学的な調査を進めるうちに、経論などばかりでなく、太子伝などを含む典籍全体を「宗教テクスト」としてとらえ、個々の文献を研究するだけでなく、そうした「宗教クスト」を総体として把握するようになっていきます。そうした中世宗教テクストの世界を最も体現しているのが「聖徳太子という存在」です。

 太子に関する歴史と伝説が重ねられ、太子伝の正典となったのが『聖徳太子伝暦』ですが、これを中心として、様々な伝説・信仰が新たに形成されていくと同時に、古典研究と同様の学問的営為として注釈が積み重ねられていきます。

 舎利は釈尊そのものでもある聖なる存在ですが、太子についても、奇跡的な誕生の際に右手に握って生まれてきたという舎利が崇拝され、釈迦の仏像が崇拝されるように、幼い姿の「南無太子像」を初めとする様々な太子像が作られ、信仰されるようになります。そうした太子信仰のあり方を、阿部さんは次のような図で示します。

 つまり、

 図像テクスト ←- -→ 文字テクスト

 礼                    儀
 拝  太子尊像   太子講式    礼
 ↑                     ↑
          舎 利 
 ↓                     ↓
 芸  太子絵伝   太子伝記    物
 能                     語

  解釈←---  ---→注釈

 この講演では、天台座主であって鎌倉初期に四天王寺の別当を兼ねた慈円、法隆寺の聖徳太子信仰を広めた慶政・顕真など、太子を信仰した個性的な宗教者に着目すると同時に、その慈円のもとで出家したと伝えられる親鸞とその門徒の太子信仰にも目を配り、寺の絵殿に描かれた障壁画や持ち運ばれて絵解きされた掛幅画の太子伝、和歌・今様なども含めた多様な太子宗教テクストの展開を追っています。

 太子と生身の善光寺如来との手紙のやりとりや、空海が太子廟に参籠して奇瑞を得たとする伝承が示すように、太子宗教テクストはどんどん複合化していきますが、秘伝を多く含むそうした太子宗教テクストを広める際、重要な役割を果たしたのは、磯長の太子廟や四天王寺や法隆寺その他、太子と関係深い聖地と拠点として全国を旅する念仏聖たちでした。

 上の図が示すように、こうした生動する太子宗教テクストの中心に「舎利」を置くのが阿部説の特徴です。この講演では触れられていませんが、玉虫厨子でも絵の中心は舎利でしたね。瑞泉寺の太子伝会と、その隣町の善徳寺で行われ南無太子像の開帳を含む「虫干法会」に「およそ三十年余り、ほぼ毎年恒例のように参って聴聞して」きた阿部さんは、太子信仰は「今も生きた文化の遺産であり、祀られ続け、その営みのうちに絶えず古えの記憶が蘇っている」ことを強調して、しめくくっています。

 この内容豊かな講演を読む人は、「聖徳太子は『憲法十七条』を作って『和』の思想を説き、中国と対等の外交を行った偉人である」といった太子観が、いかに近代的なものであるか、それでいて、微妙な形で中世の太子信仰とつながっている面もあるといった点について、考えさせられることでしょう。