聖徳太子研究の最前線

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「トヨトミミ」の「ミミ」は聞く「耳」か:古江亮仁「豊聡耳命の御名由来譚について」

2011年09月06日 | 論文・研究書紹介
 「上宮厩戸豊聡耳太子」という呼称のうち、前々回は「上宮」、前回は「厩戸」を取り上げましたので、今回は「豊聡耳」です。関連論文を簡単に紹介しているだけですが、こういう調子でやっていると、推古紀の太子関連記事を読むだけで数年かかりそう……。

 さて、「豊聡耳」だけを主題とした論文は、えらく昔のものしかありません。

古江亮仁「豊聡耳命の御名由来譚について」
(『仏教史研究』1号、1949年9月)

です。60年ちょい前ですが、これ以後、まとめて論じたものがないため、これが最前線ということになります。

 しかも、この論文はなかなか面白い議論をしているのに、ほとんど注目されておらず、最近の太子関連の本や論文で引用されているのを見たことがありません。一刻一秒を争う理系の最新分野の論文と違い、文科系の学問では、こうした例は良く見られます。大正時代の論文が一番良いなどといった場合もたまにあるため、重要な事柄については、古い論文も確かめておいた方が安全です。

 さて、同論文では、「天寿国繍帳」に「等巳刀弥弥乃弥己等」、「元興寺塔露盤銘」に「有麻移刀等已刀弥弥乃弥已等」、同寺の釈迦造像記には「等与刀弥弥大王」とあるため、「トヨトミミ」という呼び名が早くからあったことは間違いないものの、「御在世中に既にあつたか、どうかを確言することは出来ない」というところから話を始めます。

 そして、『古事記』『日本書紀』が「ミミ」に「耳」の字を当てているのは妥当かどうか、検討します。『書紀』の神代の巻に見える「~耳命」「~耳尊」「~耳神」などの「耳(ミミ)」が男性の尊称であることは、宣長『古事記伝』が指摘していうるえ、継体紀にも「耳皇子」という皇子がいるためです。「紀直の祖の豊耳」などという人物もいましすし。

 ところが、養老年間や大宝年間の戸籍になると、神や皇族、あるいは豪族の祖先などではなく、一般人の名や女性の名にも「耳」が用いられるようになり、元の意味が失われてしまっているため、「トヨトミミ」の「ミミ」を聴覚器官の「耳」に結びつけたのは、そのような時代だろうと推測するのです。用明天皇元年の分注に「更名豊耳聡聖徳、或名豊聡耳法大王」とあるのは、そうした混乱を示す例と同論文では見ています。

 そして、『書紀』の太子名由来譚は、『書紀』編者が創作したか、「太子伝」のようなものを材料としていたかについては、後者の可能性が高いとし、当然、僧侶の作であろうから、道慈か彼のような人物によって書かれたと見ることも出来ようとしています。そこで、あげるのが、『法華経』法師功徳品の次の個所です。

 持此法華者  悉皆得聞之
 三千大千界  内外諸音声
 下至阿鼻獄  上至有頂天
 皆聞其音声  而不壊耳根
 其耳聡利故  悉能分別知
 持是法花者  雖未得天耳
 但用所生耳  功已如是

 すなわちここに、『法華経』を誦持する者は「其耳聡利故(其の耳、聡利なるが故に)」悉く聞いて知る、ということが強調されている点に注目し、「書紀編者が太子の法華経講説と云ふことを念頭に置いて居つたことが知れよう」(33頁)とするのです。この個所は、一度に十人の話を聞いたという伝承の典拠とされている個所ですが、一般に知られている長沼賢海氏の指摘より、この古江論文の方が早いです。

 「耳聡」という個所が一致すること、『書紀』の分注では、「豊聡耳」より「豊耳聡」の方を先にあげているのは、興味深いですが、道慈帰国以前である712年に献上された『古事記』段階で「上宮之厩戸豊聡耳命」と称されているのですから、道慈創作説は成り立たないですね。

 その「上宮之厩戸豊聡耳命」といった最上級の敬称は、『古事記』の他の王子名には全く見えないこと、この時点で厩戸の神格化は相当に進んでいたことは、鎌田東二「聖徳太子の原像とその信仰」(梅原・黒岩・上田他『聖徳太子の実像と幻像』大和書房、2002年)が指摘していた通りです。