聖徳太子研究の最前線

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金堂の見事な壁画は西域由来の最新描法による:有賀祥隆『法隆寺金堂壁画選』解説

2011年09月09日 | 論文・研究書紹介
 法隆寺金堂の四壁を飾る壁画の原寸コロタイプ複製については、以前、このブログで紹介しました。大変な手間と技術によって昭和10年に撮影されたそのガラス乾板から直接にコロタイプ製版・印刷された図版が、6月に刊行されています。

「法隆寺金堂壁画撰」刊行会編『原寸大コロタイプ印刷による 法隆寺金堂壁画選』
(岩波書店、2011年、36,750円)

です。今回の出版は、いろいろな職人技の成果による工芸作品のようなものであって、値段もそれなりにしますので、私も図書館で拝見しました。

 仏・菩薩・飛天の顔の部分を原寸でコロタイプ印刷した7枚のうち、6枚はモノクロであり、傑作として知られる第6号壁の「阿弥陀如来左脇侍菩薩」像1枚は、世界初の多色刷コロタイプ印刷によるものであって、技術史から見ても画期的な労作です。薄い解説が付されており、東北大名誉教授の有賀祥隆氏と、復刻印刷を担当した京都の便利堂の鈴木巧氏が書いておられます。

 美術史の面を担当した有賀氏の解説では、金堂壁画の様式は、敦煌の莫高窟壁画(7世紀中頃から末葉)に求められるものの、敦煌の壁画に比べても明快で清冽な画風となっており、高い画格と確かな技術がうかがわれるとしています。おそらく、長安など中央画壇で、則天武后が君臨した周代(690-705)に活躍した西域系の画家、尉遅乙僧が得意とした「鉄線描や凹凸画法による西域画の作風が時をへだてず逸早く新しい表現方法として受容され、習得された結果」だというのが、有賀氏の判断です。

 金堂第一号壁の十大弟子のうち、若くて眉目秀麗な比丘の顔は、顔の輪郭を額・眉下・頬・小顎・おとがいの五個所で筆継ぎし、見事な描線で描いていますが、このように小顎で筆継ぎして描くのは、高松塚古墳の壁画や。唐の節愍太子墓(710年)東壁の像の表現と近い由。

 この他、壁画の面によって顔の描き方は異なっているものの、全般に西域の画法の影響が強いと指摘されています。唐代の長安でもてはやされた最新の異国風な描法が、まさに同時代の日本にもたらされたということです。

 問題は、こうした壁画の手本は、どの遣唐使の際に将来され、どのような経路で法隆寺にまで届けられたのか、またその手本に従って描けるだけの高度の技術を持った画工たちをどうやって確保したかということですね。再建時の法隆寺が国家からの支援をどの程度得ていたかについては、いろいろ議論があって決着を見ていませんが、上宮王家が滅亡した後、斑鳩の中小氏族だけで地元の工人たちを使って造営したとしたら、そのような最新の描法を用いた壁画作成が可能だったか。

 寄せ集めの木材で造られた金堂と違い、五重塔などは統一した上質の用材によって建立されたことが知られています。金堂の壁画は、そうした伽藍が整う和銅四年(711)頃には描き終わっていたと有賀氏も推測していますので、造営工事の最終時期の作と見てよいのでしょうが、この時期は、光明皇后などが天平7年(735)あたりから積極的に支援するようになる前です。あるいは、通説と異なり、壁画だけ作成時期が下がるのか。

 ただ、平城京を代表する興福寺にしても大安寺にしても、こうした見事な壁画で飾られていたとする記録がありません。壁画の焼けた破片が出土している鳥取県の上淀廃寺のように、白鳳時代には地方の寺でも壁画による荘厳がなされていた例がありますが、法隆寺金堂壁画のような質のものであったかどうか。

 あと一つ気になるのは、東アジアの仏教絵画を代表する傑作の一つである金堂の壁画と、絵のうまい子供が描いたような天寿国繍帳の素朴な絵柄との落差をどう考えるか、ということですね。