「上宮廐戸豊聡耳太子」のうち、「上宮」「廐戸」「豊聡耳」についてそれぞれ関連論文を紹介してきた以上、次は「太子」ということになります。これについては「天皇」や「皇太子」という称号と一緒に考える必要がありますが、その「天皇」に関しては、「大王→天皇」ではなく、「天王→天皇」とする説が一時はなかなか有力でした。
中国では皇帝と王の中間に位置する天王という称号が五胡十六国時代に使われていたうえ、『日本書紀』雄略天皇五年秋七月条の分注では、『百済新撰』の引用の形で、百済の蓋鹵王が弟を大倭に派遣して「天王に侍らしむ」とあり、二十三年夏四月条の本文では、百済の文斤王が薨ずると倭国の天王は蓋鹵王の五人の子のうちの末多王を百済王とすべく兵士と武器と共に百済に送って東城王とさせた、という記事が見えるためです。後者も『百済新撰』などに基づく記事でしょうから、天王という称号は、すべて百済側が用いたものということになります。
(『書紀』における「天王」については、テキストの系統による異同もあるのですが、今回はその問題には触れません)
「天王→天皇」論議は反対も多く、ややおさまっていましたが、中国における「天王」について検討し直した論文が最近いくつか出ており、その中でも詳細なのが、
内田昌功「東晋十六国における皇帝と天王」
(『史朋』41号、2008年12月)
です。
同論文では、「天王」号を用いる背景には、実権を握る宗族が君主を支えつつ抑制する非漢族国家の特徴があることを指摘した中国史家の谷川道雄、四天王その他、仏教の天王の影響を重視する東洋史家の宮崎市定などの大家を初めとする研究者たちによる議論の過程をまず概説します。そして、実際には天下を統治する皇帝に近い場合もあれば、各地の王に近い場合もあり、状況は複雑だとしたうえで、天王号を用いたのは非漢族のみであることに注意します。
興味深いのは、華北の大半を支配下に置いた石勒に対して、群臣が皇帝即位を要請すると、石勒はこれを固辞して330年に「趙天王」を名乗り、「皇帝事を行なう」とあるように実質的には皇帝として行動していたものの、祖父を宣王、父を元王、妻を「王后」、長子を「太子」と呼ぶなど、皇帝ではなく王としての呼称を守ったことです。ただし、337年に即位して「大趙天王」と名乗った石虎の例が示すように、「大~天王」を名乗った者たちの場合は性格が変わり、皇帝とは並立しないようになっていきます。
一方、非漢族でも皇帝を名乗った者たちもいますが、こうした者たちは、それ以前に漢族国家である西晋や東晋から冊封を受けており、その上で晋の皇帝に代わって自ら皇帝として即位するという形をとっています。つまり、天王を称した国は、非漢族であって、漢や晋といった漢族の国家と直接の関係を持っていなかった国家ということになるのです。
ただし、357年に(大秦)天王となった前秦の苻堅などは、天王号の権威が確立して国家が隆盛していたこともあってか、一貫して天王であり続け、皇帝になろうとはしていません。また、胡族の王者の伝統的呼称である(大)単于を君主が兼ねたり、皇太子や有力王族に任じさせたりすることもなくなります。つまり、この時期の天王は、胡族の最高実力者であると同時に、漢族たちを多く含む広大な領国の王者を兼ねる至高の称号たりえていたのです。
このように天王号は、4世紀以来、1世紀強にわたって用いられてきたものの、五世紀になると姿を消し、再び皇帝という号が用いられるようになりますが、内田氏は、この「皇帝」は胡族はなれなかったかつての漢族国家の皇帝ではなく、「漢族と非漢族を一律に統治することのできる称号」(12頁)となっていたことを指摘しています。
さて、このように内田論文を見てきて、『書紀』の「天王」表記に戻ると何が見えてくるか。高句麗では、「王」より上位の存在として「太王」という称号を用いていたことなども考慮すると、百済がある時期において倭国の君主を「天王」と称したことはあり得ることであって、倭国の君主が実際に「天王」を正式な称号として名乗った時期はなかったとしても、この天王という呼称が「天皇」という称号のきっかけとなった可能性はありそうに思われます。
「上宮厩戸豊聡耳太子」の場合、推古紀の多くの個所で「皇太子」と呼ばれているのは、律令以後の潤色でしょうが、厩戸皇子を「太子」と呼んだ個所は、冒頭のこの個所以外では、厩戸皇子が没した際の高句麗の慧慈の言葉のみであることに注意すべきでしょう。
皇帝・皇后・皇太子などは「こうてい」「こうごう」「こうたいし」であって「皇」は「こう」という漢音で呼ばれているのに対し、天皇の「皇」は「おう(わう)」であって、それ以前の発音によっているため、「天皇」の語は律令以前から定着していた可能性が高いことは、森田悌氏が注意された通りです。
これは「太子」の場合も同様であって、律令によって「皇太子」が規定される以前の段階でも「太子」と呼ぶことはあり得たように思われます。少なくとも推古紀では、冒頭の「上宮厩戸豊聡耳太子」という名称を紹介した個所以外では、厩戸皇子のことを一貫して「皇太子」と称しておりながら、推古29年の薨去の記事、つまり高句麗の慧慈関連の記事だけが「上宮太子……太子……上宮太子……上宮太子」とあるように、集中して「太子」と呼んでいることが注目されます。あるいは、これは「天王」の語が百済系史料にのみ見られたように、朝鮮渡来系の僧侶たちの伝承に基づく史料によったことを示すのかもしれません。
中国では皇帝と王の中間に位置する天王という称号が五胡十六国時代に使われていたうえ、『日本書紀』雄略天皇五年秋七月条の分注では、『百済新撰』の引用の形で、百済の蓋鹵王が弟を大倭に派遣して「天王に侍らしむ」とあり、二十三年夏四月条の本文では、百済の文斤王が薨ずると倭国の天王は蓋鹵王の五人の子のうちの末多王を百済王とすべく兵士と武器と共に百済に送って東城王とさせた、という記事が見えるためです。後者も『百済新撰』などに基づく記事でしょうから、天王という称号は、すべて百済側が用いたものということになります。
(『書紀』における「天王」については、テキストの系統による異同もあるのですが、今回はその問題には触れません)
「天王→天皇」論議は反対も多く、ややおさまっていましたが、中国における「天王」について検討し直した論文が最近いくつか出ており、その中でも詳細なのが、
内田昌功「東晋十六国における皇帝と天王」
(『史朋』41号、2008年12月)
です。
同論文では、「天王」号を用いる背景には、実権を握る宗族が君主を支えつつ抑制する非漢族国家の特徴があることを指摘した中国史家の谷川道雄、四天王その他、仏教の天王の影響を重視する東洋史家の宮崎市定などの大家を初めとする研究者たちによる議論の過程をまず概説します。そして、実際には天下を統治する皇帝に近い場合もあれば、各地の王に近い場合もあり、状況は複雑だとしたうえで、天王号を用いたのは非漢族のみであることに注意します。
興味深いのは、華北の大半を支配下に置いた石勒に対して、群臣が皇帝即位を要請すると、石勒はこれを固辞して330年に「趙天王」を名乗り、「皇帝事を行なう」とあるように実質的には皇帝として行動していたものの、祖父を宣王、父を元王、妻を「王后」、長子を「太子」と呼ぶなど、皇帝ではなく王としての呼称を守ったことです。ただし、337年に即位して「大趙天王」と名乗った石虎の例が示すように、「大~天王」を名乗った者たちの場合は性格が変わり、皇帝とは並立しないようになっていきます。
一方、非漢族でも皇帝を名乗った者たちもいますが、こうした者たちは、それ以前に漢族国家である西晋や東晋から冊封を受けており、その上で晋の皇帝に代わって自ら皇帝として即位するという形をとっています。つまり、天王を称した国は、非漢族であって、漢や晋といった漢族の国家と直接の関係を持っていなかった国家ということになるのです。
ただし、357年に(大秦)天王となった前秦の苻堅などは、天王号の権威が確立して国家が隆盛していたこともあってか、一貫して天王であり続け、皇帝になろうとはしていません。また、胡族の王者の伝統的呼称である(大)単于を君主が兼ねたり、皇太子や有力王族に任じさせたりすることもなくなります。つまり、この時期の天王は、胡族の最高実力者であると同時に、漢族たちを多く含む広大な領国の王者を兼ねる至高の称号たりえていたのです。
このように天王号は、4世紀以来、1世紀強にわたって用いられてきたものの、五世紀になると姿を消し、再び皇帝という号が用いられるようになりますが、内田氏は、この「皇帝」は胡族はなれなかったかつての漢族国家の皇帝ではなく、「漢族と非漢族を一律に統治することのできる称号」(12頁)となっていたことを指摘しています。
さて、このように内田論文を見てきて、『書紀』の「天王」表記に戻ると何が見えてくるか。高句麗では、「王」より上位の存在として「太王」という称号を用いていたことなども考慮すると、百済がある時期において倭国の君主を「天王」と称したことはあり得ることであって、倭国の君主が実際に「天王」を正式な称号として名乗った時期はなかったとしても、この天王という呼称が「天皇」という称号のきっかけとなった可能性はありそうに思われます。
「上宮厩戸豊聡耳太子」の場合、推古紀の多くの個所で「皇太子」と呼ばれているのは、律令以後の潤色でしょうが、厩戸皇子を「太子」と呼んだ個所は、冒頭のこの個所以外では、厩戸皇子が没した際の高句麗の慧慈の言葉のみであることに注意すべきでしょう。
皇帝・皇后・皇太子などは「こうてい」「こうごう」「こうたいし」であって「皇」は「こう」という漢音で呼ばれているのに対し、天皇の「皇」は「おう(わう)」であって、それ以前の発音によっているため、「天皇」の語は律令以前から定着していた可能性が高いことは、森田悌氏が注意された通りです。
これは「太子」の場合も同様であって、律令によって「皇太子」が規定される以前の段階でも「太子」と呼ぶことはあり得たように思われます。少なくとも推古紀では、冒頭の「上宮厩戸豊聡耳太子」という名称を紹介した個所以外では、厩戸皇子のことを一貫して「皇太子」と称しておりながら、推古29年の薨去の記事、つまり高句麗の慧慈関連の記事だけが「上宮太子……太子……上宮太子……上宮太子」とあるように、集中して「太子」と呼んでいることが注目されます。あるいは、これは「天王」の語が百済系史料にのみ見られたように、朝鮮渡来系の僧侶たちの伝承に基づく史料によったことを示すのかもしれません。