聖徳太子研究の最前線

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推古朝の権力構造と上宮王家の経済基盤: 仁藤敦史「6,7世紀の宮と支配関係」

2010年10月19日 | 論文・研究書紹介
 上宮王家の宮に関する研究で知られる仁藤敦史氏の最近の関連論文を紹介しておきましょう。

仁藤敦史「6,7世紀の宮と支配関係」
(『考古学研究』55巻2号、2008年9月)

です。

 早い時期の天皇の宮の実態は、よく分からないのに対して、聖徳太子・山背大兄王の居宅を中心とする斑鳩宮については考古学的調査もなされており、資料も多少残っているため、その研究は、律令制以前の土地支配や伝領のあり方を知るうえで非常に重要だというのが、仁藤氏の基本姿勢です。なお、仁藤氏は、聖徳太子については、「厩戸王子」という表記を用いていますので、以下ではそれに従います。

 仁藤氏は、非蘇我氏系の王族による広瀬地区進出に対抗するため、新興の蘇我氏の意向によって上宮王家が斑鳩開発に乗り出し、少なくとも斑鳩宮、岡本宮、中宮、飽波葦垣宮(泊瀬王宮)の四つの宮が存在したこと、これら諸宮が広義の「斑鳩宮」であって、妃ごとに分散居住し、次世代に伝領されていったことを示します。しかも、諸宮がばらばらに活動するのでなく、厩戸王子と山背大兄王を家長とする上宮王家が中心となって、畿内に分布する物部氏の遺領や自家の壬生部集団や屯倉などを運営していたとします。

 上宮王家の王子・王女名には、舂米部・長谷部・丸子部その他の部名や河内・摂津・大和の地名にちなむ者が多く(46頁)、このことは、それらの部を領有していたことを示すものであり、上宮王家が盛んに行なった寺の建立も、こうした動きと関連があるのであって、斑鳩の諸宮の多くが後に寺となったのは、家産の分散を防ぐためだった、というのが氏の見解です。

 推古朝の政治については、大王推古と大臣馬子と王子厩戸の「三極構造」として捉え、推古のもとでの厩戸と馬子による「共同執政」と位置づけます。そして、家臣的氏族については、大王だけでなく、上宮王家や蘇我氏のように有力な王族や豪族に奉仕して地位を確保する「二重身分」であったとします。そうした中小伴造の奉仕先であるツカサ(司、官)は、上宮王家や蘇我氏などにもあって管理されており、大王宮への集中は不十分であったとします。

 つまり、貢納・奉仕に基づく疑制的な同族関係による支配から、官司的な屯倉・部民支配への転換が進みつつあったものの、この時期は過渡期であって不十分であったため、上記のような「分節的支配」となっていたとするのです。

 本論文では、大王と王族・豪族のみが人格的に結びついていて、大王が代わるごとに遷宮が行われた従来の形が、上記のような過渡的な支配形態を経て、遷宮を前提としつつも官司や交易の機能が集中した律令的な都城に移行するようになっていったことなどについて、論じられています。

 ここで明らかにされている上宮王家の新しい支配形態とその規模は、上宮王家が蘇我本宗家につぐ勢力を持ち、蘇我本宗家と密接な関係を保ちつつ次の時代への変化をリードしていったことを示すものです。