聖徳太子研究の最前線

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法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に関する新発見!

2010年10月31日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 聖徳太子については、基本文献すら完全には理解できていないのが実状です。私が、出典に注意しつつ基本文献をきちんと読むことから始めなければならないと、これまで何度も強調してきたのは、そのためです。昨日、東大寺の現代仏教講演会で行なった講演、「<聖徳太子架空人物説>の誕生と崩壊--光明皇后による聖徳太子関連文物捏造説を正す--」でも、そのことに触れ、そうした例の一つとして釈迦三尊像光背銘をとりあげました。

 つまり、太子の母后が亡くなってすぐ太子と干食王后(膳妃)が重病となったことについて「王后王子」と臣下たちが「深く愁毒を懐」き、太子の背丈と同じ大きさの釈尊像を作りますと誓願したとあるうち、その「愁毒を懐く(愁苦の思いをいだく)」という表現は、『仏本行集経』のような仏伝関連経典に見えており、また「安住世間」という語は主に仏について言う表現であることなどは、これまで注意されていないと述べたのです。

 ところが、帰りの新幹線の中で、この箇所を読み直し、また用例を検索し直していたら、とんでもない見落としをしていたことに気づきました。「懐愁毒」については、そのものずばりの用例があったのです。(講演を聞いてくださった皆さん、申し訳ありません……)

 それは、釈尊が、天に昇って亡き母のために九十日、説法をしていた間、弟子たちは歎いて釈尊を捜し求め、優填王は釈尊を恋慕するあまり、牛頭栴檀(香木)で釈尊そっくりの像を作って礼拝供養したという話です。この話は、仏像の起源譚として様々な仏典に見えており、有名なものですが、インド由来の諸文献に基づいて中国で編集されたと推定され、六朝末から唐にかけて広く読まれた『大方便仏報恩経』では、こう書かれています。

優填大王、如来を恋慕し、心に「愁毒を懐き」、即ち牛頭旃檀を以て、如来の有する所の色身を{てへん+票}像し、礼事し供養すること、仏の在(いま)す時と異なり有ること無きなり。
(優填大王戀慕如來、心懷愁毒、即以牛頭栴檀、{てへん+票}像如來所有色身、禮事供養、如佛在時、無有異也)、大正蔵3巻136b。

 釈迦三尊像光背銘を書いた人が、この話を意識して書いたことは疑いありません。銘文では、「尺寸王身(上宮王の身、つまり太子と同じ背丈)」の釈迦像を作る功徳によって、「転病延寿し、世間に安住」されるよう願い、定業であるなら、「浄土に往登し、早く妙果に昇る」よう願ってますが、実際には助からないことが確定した段階で臨終儀礼の一つとして誓願を行なうこともよくあったようです。

 この銘文は太子が亡くなってから書かれているのですから、「母后が亡くなってすぐ、太子が後を追うように亡くなったのは、釈尊と同様、亡き母に説法するため天に行かれたのだ」と受け止め、不在の釈尊を恋慕する優填王が釈尊そっくりの像を作ってお仕えしたように、残された我々も太子の生前の姿そのままの像を作るのだ、という面も意識しつつ、生前の誓願として描いたと見るべきでしょう。

 釈迦三尊光背銘が太子を釈迦扱いしているかどうかは、これまで論争の的になってきましたが、これで確定しましたね。しかも、この出典には、亡き母も登場していますので、場面もぴったりです。

 こうなると、「天寿国繍帳」もこの図式を考慮すべきかもしれません。釈尊が天におもむいて亡き母に説法する図は、「孝」を尊ぶ中国では好んで描かれています。また、「天寿国繍帳」とともに古代日本の繍仏の双璧とされる勧修寺の繍仏(法隆寺金堂壁画の仏と似ていることで有名)について、肥田路美さんの「勧修寺繍仏再考」(『仏教芸術』212号、1994年1月)は、技術の高さなどから見て中国製と推定したうえで、これまで言われてきた釈迦霊鷲山説法図ではなく、初唐に流行した弥勒仏ないし優填王像(優填王の逸話が示す釈迦像)としており、こう書かれています

『全唐文』には、唐の繍仏の賛が十七篇収録されており、そのほとんどが亡者追善のために、女性が発願したものである。(74頁上)

【追記 2010年11月28日】
上に書いたように、「天寿国繍帳」の銘文も調べ直したら、案の定、優填王の説話を踏まえて書かれていましたので、次の回の記事で指摘しておきました。
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