聖徳太子研究の最前線

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民衆とは縁が薄かった「憲法十七条」

2010年09月18日 | 聖徳太子・法隆寺研究の関連情報
 前回の記事で、「憲法十七条」第一条の和こそが太子の中心思想であって日本の文化的伝統となってきたとする考えが広まったのは、実は昭和になってからのことだと書きました。この点について、少々補足しておきます。

 「憲法十七条」は『日本書紀』に全文が掲載されているのですから、聖徳太子を尊重する人であれば、「憲法十七条」を重んじるのは当然です。しかし、太子信仰が各地の民衆の間にまで広まっていった際、強調され尊重されたのは、守屋征伐、超人的な言行、観音の化身、慧思の後身、浄土往生の導き役、未来の予言、戦の神様、大工などの神様などといった側面でした。「憲法十七条」を太子尊重の最大の根拠とするような庶民は、まずいなかったと思われます。

 『日本書紀』は宮中などで講読された際は、もちろん、「憲法十七条」も講義されましたし、法隆寺などでも、典拠の解明を中心にして研究がなされていたようです。しかし、太子伝説に関する書物はきわめて多いのに対し、「憲法十七条」の注釈の数は非常に限られています。

 たとえば、戦時中である昭和17年に、「億兆一心、臣道実践の要が痛感せらるゝ時、国民が挙つていよいよ深く太子鑚仰の熱情を致し、その御精神を奉戴し、その御理想を活現することに努める」ために刊行された『聖徳太子全集』では、第一巻が「憲法十七条」の注釈と明治以後の関連論文となっていますが、収録されている明治以前の単行本の古注釈はわずかに7篇です。

 しかも、平安時代のものと推測される現存最古の注釈は、嘉永年間(1848-1854)書写の写本が1部残っているのみ、次に古い文永9年(1272)の注釈は永禄11年(1568)の書写本があるのみです。14世紀初めの玄恵の注釈とされる『聖徳太子憲法』は、珍しく寛永21年(1644)に開板されていますが、「憲法十七条」の注釈は写本がほとんどであって、刊行されているのはごく少数なのです。

 庶民向けのものとしては、宝永7年(1630)に大阪の商人向けに説かれた和文の注釈が存在するだけであり、しかも、この注釈は江戸末の写本が1部残っているのみです。「憲法十七条」が藩の学校や寺子屋などで教科書として広く使われていたなら、様々な注釈が作成され、その写本や版本が山のように残っているはずですが、そうではないのです。

 ちなみに、この庶民向けの注釈、『十七条憲法和解俗評』の写本は小倉豊文の所蔵本であり、現存最古の『聖徳太子十七憲章併序注』の写本は、小倉が学びまた後に教えた広島文理科大学所蔵であって、こちらも小倉が研究して学界に知らせたものです。

 江戸時代には、「憲法十七条」を少し変えたものと、似た形式の四種類の十七条の憲法を並べた「五憲法」が、偽書である『先代旧事本紀大成経』の一部として登場し、かなりの影響を与えました。しかし、「五憲法」が成立するに至った事情を説いた「憲法本紀」では、皇太子は天皇の命によって後から追加作成した「政家憲法」、「儒士憲法」、「神職憲法」、「釈氏憲法」のうちの儒神釈の三教について詳説していますが、そこには「和」という言葉すら登場しません。

 その『先代旧事本紀大成経』を刊行して偽書騒動を引き起こし、謹慎を命じられた僧の潮音が著した「憲法十七条」注釈、『聖徳太子十七憲法』にしても、第一条の解釈では「和」を尊びつつも、禅僧としては当然のことながら、その「和」の本体として「一心」を説いており、「和」は最重要の原理とはなっていません。

 太子関係の絵にしても、『勝鬘経』の講賛図はいくつも残っているのに対し、「憲法十七条」を講義する図などはありません。「上宮太子」や「太子」など、聖徳太子を扱った謡曲も作られますが、いずれも奇跡譚や守屋征伐や観音信仰などが主であって、「憲法十七条」は出てきません。聖徳太子講式の中には、「十七箇条之憲法」が律令の基になったと賞賛しているものもありますが、あくまでも太子の事蹟の一つとして簡単に触れているだけであって、「和」が強調されることはありません。

 数ある聖徳太子和讃のうち、親鸞は「十七の憲章つくりては、皇法の規模としたまへり」、「憲章第二にのたまはく、三宝にあつく恭敬せよ、四生のつゐのよりどころ、万国たすけの棟梁なり」と讃えるのみ、頓覚の和讃も「外には憲法十七条、春囲の宮には民を撫で、内には三部の疏を製し」とあるだけです。

 聖徳太子は、江戸と明治初期において一部の国学者と儒者が攻撃した以外は、すべての時代を通じて尊崇されてきましたが、「憲法十七条」を特別に重視し、それも第一条の「和」を日本の特質として強調するような傾向は、近代以前には見られなかったのが実際のところです。

【追記 2010年9月20日】
 『聖徳太子全集』第1巻に収録されている古注釈は9篇と書きましたが、10篇の誤りですので訂正します。ただ、これらは、「憲法十七条」の注釈を含む太子伝からその部分だけを抜き出して『全集』に収録したものも複数含まれているため、「憲法十七条」の注釈として単行された書物はさらに少ないことに注意すべきでしょう。
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