聖徳太子研究の最前線

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聖徳太子奉讃会の歴史 : 増山太郎編著『聖徳太子奉讃会史』

2010年10月11日 | 論文・研究書紹介
 聖徳太子一千三百年遠忌事業をきっかけとして生まれ、聖徳太子顕彰運動の中心となり、法隆寺の支援と聖徳太子や法隆寺に関する学問的研究の支援をおこなってきたものの、平成10年に解散するに至った聖徳太子奉讃会の歴史が本になりました。

増山太郎編著『聖徳太子奉讃会史』
(永青文庫、2010年10月、非買品)

 増山氏は、電通を定年退職された後、奉讃会の理事兼主事として活躍し、現在は、奉讃会会長をつとめていた時期の細川護立侯爵が創設した永青文庫の常務理事をされています。

 同書によって歴史をふりかえると、明治3年(1870)の太子一千二百五十年遠忌法要は、衰退して堂塔も傷みが目立ち、法要のための法具も不十分であった法隆寺においては、僅かな関係者のみで、ひっそりと営まれました。儒者や国学者による太子批判はかなり強く、その余波は大正初期にまで及んでいました。学僧として知られる法隆寺の佐伯定胤貫主は、そうした状況を歎き、一千三百年遠忌を国民全体が太子を讃仰する機会にしたいと願い、周囲に働きかけます。

 大正元年(1912)に、岡倉天心や東大国史の黒板勝美助教授や仏教系ジャーナリストの高嶋米峰らが法隆寺会設立準備会を開催。翌年、東大印哲の高楠潤次郎などが加わって法隆寺会が結成されます。

 まずは募金ということで、初めに財界の大御所である渋沢栄一のところへ東京美術学校校長の正木直彦、黒板、高嶋が趣き、協力を頼んだところ、水戸学を学んだ渋沢は、崇峻天皇を殺した蘇我馬子を重用するような大義名分を乱した人物などのためには働けないと、にべもなく断ったそうです。正木らが、太子は日本文化の恩人であって、中国外交において活躍したことなどを1時間ほど説いた結果、渋沢は一転して協力を約束し、自分は副会長を引き受けるから別に立派な会長を推薦しようということになり、以後、運動の熱心な賛同者として力を発揮しています。

 その結果、大正7年(1918)に、久邇宮邦彦親王を総裁、徳川頼倫侯爵を会長、渋沢栄一男爵を副会長として、聖徳太子一千三百年遠忌奉賛会が創設されました。募金の目標は45万円でした。

 大正9年(1920)には、遠忌記念の美術展覧会を上野公園竹之台陳列館にて開催。聖徳太子記念研究基金として、内帑金(天皇の個人財産)から4万円を下賜され、翌年、叡福寺における遠忌大会を奉賛し、また法隆寺での聖霊大会を奉賛します。
 
 大正13年(1924)に、運動の存続を願う久邇宮総裁の強い意志により、徳川頼倫侯爵を会長、渋沢栄一子爵を副会長として、財団法人聖徳太子奉讃会が発足すると、太子顕彰運動を行うとともに、廃仏毀釈によって痛手を受けていた法隆寺を支援し、また太子関連研究の支援を行なうようになっていきます。

 敗戦を迎えると、満鉄などの株券・債権を主としていた基本財産が烏有に帰したため、活動停止となりました。しかし、苦しい財政状況の中で、昭和26年に法隆寺との共催で法隆寺夏期大学を実施したところ、非常に人気となり、長く続きました。坂本太郎理事などは「夏期大学の講義中に死ねたら幸いである」とよく口にしていたほどであるうえ、花山信勝理事も、歩行が不自由になった晩年ですら夏期大学には必ず出席するほど、理事たちは力を入れていた由。

 昭和33年には、逆に法隆寺から資金支援を受けて給費研究生制度を復活しますが、会を支えてきた理事たちが次々に高齢で亡くなっていき、財政もいよいよ厳しくなったため、ついに平成10年に奉讃会は解散し、資料と残余財産を公益財団法人永青文庫に委譲するに至りました。

 奉讃会は、設立当初は資金豊富であったため、乙項研究給費生には当時の大卒初任給程度(現在の数倍相当?)の研究費が支給されたそうで、第1回の大正15年には花山信勝、第2回の昭和2年には坂本太郎が含まれています。花山の「法華義疏の研究」と坂本の「大化の改新を中心としたる史的研究」は、いずれも研究成果報告論文が学位論文の基盤となっています。そして、昭和3年の給費生は足立康と三品彰英、昭和4年は横超慧日と大岡実です。錚々たる顔ぶれですね。

 甲項の研究調査委嘱については、昭和2年の石田茂作、昭和18年の家永三郎、昭和19年の井上光貞などがいます。こちらも大物揃いです。上記のうち、花山、坂本、大岡、石田の四氏は、後に奉讃会理事となっています。

 戦後、中断していた研究給費生は、戦前とは逆に法隆寺からの資金援助を得て昭和33年(1958)に再開されますが、その最初の研究給費生二名のうちの一人は、飯田瑞穂でした。太子伝研究に努め、天寿国繍帳銘研究の基礎を築いた着実無比な文献学者ですね。

 ところが、以後の研究給費生には、花山・坂本・大岡などの諸氏のように、聖徳太子を熱烈に信奉して太子や法隆寺の研究を熱心に進め、太子顕彰に努めた人は見あたりません。研究題目にしても、太子や法隆寺そのものを扱う人は稀であり、研究給費生制度は、仏教学、古代史学、建築史、美術史などの研究者に対する奨学金制度に近いものになっていったようです。

 財政がきわめて厳しかったうえ、研究支援もこうした状況になったとなれば、解散するに至ったのも無理はありませんが、奉讃会が太子研究の上で大きな役割を果たしたことは確かであり、その歴史をまとめた本書は、大正以後の聖徳太子の顕彰史・研究史に関する貴重な資料となっています。

 なお、本書の奥付には「製作=吉川弘文館 印刷=平文社」とありました。これは偶然の一致でしょうが、大山誠一『<聖徳太子>の誕生』の出版社・印刷社と同じ組み合わせですね。