聖徳太子論争中の重要なテーマの一つが、天皇号です。「天皇」の語の用例の早い例は、法隆寺金堂の薬師如来像銘と天寿国繍帳銘ですし、釈迦三尊像銘にも「法皇」とあるため、これらの真偽や成立年代は、天皇制の成立、あるいは「天皇」という語がいつから使われ始めたかという問題と密接に関わっています。
その古代の天皇制の解明に取り組んできた大津透氏の新著が11月に出ました。
大津透『(天皇の歴史 01巻)神話から歴史へ』(講談社、2010年)
です。
大津氏は、『古代の天皇制』『日本の古代史を学ぶ』などの著書を刊行しておりながら、これまでは、「自らに禁じているのか」と思われるほど、聖徳太子に触れずにきています。むろん、聖徳太子虚構説を取り上げて論ずることなど、全くありません。
今回は自分が編者の一人となっている一般向けシリーズの第一巻ということもあってか、聖徳太子についても簡単に触れていますが、「近年は古代史の中でも古い時代(大化前代という)の研究は盛んではなく、戦後の歴史学をささえた大先輩たちの研究を参照することになった」(「はじめに」3頁)とあるように、大津氏独自の主張を打ち出すことはなく、戦後の諸研究を紹介するにとどまっています。
では、坂本太郎・井上光貞などの伝統を継ぐ東大日本史学専修の教授、それも古代の天皇制を専門とする大津氏は、現時点では聖徳太子についてはどのような説を妥当だと考えているのか。
まず、厩戸皇子については、「皇太子」という名称は後のものであるにせよ、厩戸皇子のために「壬生部」という財政基盤が定められたことから見て、「太子」とか「ひつぎのみこ」と称される一定の実態があったように思われる、としています。そして、『日本書紀』の記事通り、馬子大臣と太子と呼びうる地位にあった厩戸皇子とが、共同で政治を行ったと考えられるとしています。
「憲法十七条」については、聖徳太子に仮託された可能性はあるにしても、推古朝のものと見てよいとし、儒教を中心とする国家の法として考えるべきだとします。
天皇号については、天武朝とか天智朝とする見解が有力だったものの、近年ではやはり推古朝には成立していたとする説も出されており、「筆者もそれでよいと考えている」由。
天寿国繍帳銘については、その系譜は欽明天皇と蘇我稲目から発するものであり、銘文中で「天皇」と呼ばれているのが推古とその始祖の欽明だけであることは、天皇号成立の端緒の時期だったためとする義江明子氏の説を紹介しています。
以上です。結論としては、意外なほど伝統説に近い形になってますね。新しい説は出されていないうえ、太子ばかりか、馬子の役割も明確に示されていません。前後の時期と対比して「推古朝」の段階ではこれこれの仕組みとなっていたであろう、という時代と制度を主体とした論じ方です。
大津氏の立場が出た部分は、豊浦宮を尼寺である豊浦寺としたことは、「推古は、神祇祭祀だけでなく、釈迦仏を祭祀する学問尼も統括していた」ことになるとして、宗教管理者としての推古の役割を重視した箇所などでしょうか。
大津氏が、人物に重点を置かないのは、唐の律令との詳細な比較を通して、日本の律令制や財政のあり方などを中心に研究してきているためでしょう。『日本書紀』に描かれた人物像は後代の潤色が加えられており、信用しがたい例が多いのは事実ですが、評価するにせよ疑うにせよ、聖徳太子や馬子について、もう少し踏み込んだ検討をしてほしかったですね。
東アジア諸国においては、仏教は外交上でも重要な役割を果たしており(この方面では、私は若手研究者である河上麻由子氏の研究を評価しています)、私自身は、国家のうちに仏教が取り込まれた中国・高句麗・百済と違い、周辺国である新羅と日本では、国家は仏教受容と連動して形成されていったのだ、という立場であって、そうした趣旨の論文も昔、書いたことがあります(「仏教受容期の国家と仏教--朝鮮・日本の場合--」(シリーズ・東アジア仏教5 高崎直道・木村清孝編『東アジア社会と仏教文化』、春秋社、1996年)。仏教を無視して古代の中国周辺国家や天皇制を論ずることはできないはずです。
仏教学者も敬服せざるを得ないほど仏教に通じ、三経義疏についても優れた論文を書いた井上光貞を継ぐ立場にあるのですから、聖徳太子についてはともかく、仏教関連の事柄について、大津氏独自の見解を示してくれることを期待したいところです。
その古代の天皇制の解明に取り組んできた大津透氏の新著が11月に出ました。
大津透『(天皇の歴史 01巻)神話から歴史へ』(講談社、2010年)
です。
大津氏は、『古代の天皇制』『日本の古代史を学ぶ』などの著書を刊行しておりながら、これまでは、「自らに禁じているのか」と思われるほど、聖徳太子に触れずにきています。むろん、聖徳太子虚構説を取り上げて論ずることなど、全くありません。
今回は自分が編者の一人となっている一般向けシリーズの第一巻ということもあってか、聖徳太子についても簡単に触れていますが、「近年は古代史の中でも古い時代(大化前代という)の研究は盛んではなく、戦後の歴史学をささえた大先輩たちの研究を参照することになった」(「はじめに」3頁)とあるように、大津氏独自の主張を打ち出すことはなく、戦後の諸研究を紹介するにとどまっています。
では、坂本太郎・井上光貞などの伝統を継ぐ東大日本史学専修の教授、それも古代の天皇制を専門とする大津氏は、現時点では聖徳太子についてはどのような説を妥当だと考えているのか。
まず、厩戸皇子については、「皇太子」という名称は後のものであるにせよ、厩戸皇子のために「壬生部」という財政基盤が定められたことから見て、「太子」とか「ひつぎのみこ」と称される一定の実態があったように思われる、としています。そして、『日本書紀』の記事通り、馬子大臣と太子と呼びうる地位にあった厩戸皇子とが、共同で政治を行ったと考えられるとしています。
「憲法十七条」については、聖徳太子に仮託された可能性はあるにしても、推古朝のものと見てよいとし、儒教を中心とする国家の法として考えるべきだとします。
天皇号については、天武朝とか天智朝とする見解が有力だったものの、近年ではやはり推古朝には成立していたとする説も出されており、「筆者もそれでよいと考えている」由。
天寿国繍帳銘については、その系譜は欽明天皇と蘇我稲目から発するものであり、銘文中で「天皇」と呼ばれているのが推古とその始祖の欽明だけであることは、天皇号成立の端緒の時期だったためとする義江明子氏の説を紹介しています。
以上です。結論としては、意外なほど伝統説に近い形になってますね。新しい説は出されていないうえ、太子ばかりか、馬子の役割も明確に示されていません。前後の時期と対比して「推古朝」の段階ではこれこれの仕組みとなっていたであろう、という時代と制度を主体とした論じ方です。
大津氏の立場が出た部分は、豊浦宮を尼寺である豊浦寺としたことは、「推古は、神祇祭祀だけでなく、釈迦仏を祭祀する学問尼も統括していた」ことになるとして、宗教管理者としての推古の役割を重視した箇所などでしょうか。
大津氏が、人物に重点を置かないのは、唐の律令との詳細な比較を通して、日本の律令制や財政のあり方などを中心に研究してきているためでしょう。『日本書紀』に描かれた人物像は後代の潤色が加えられており、信用しがたい例が多いのは事実ですが、評価するにせよ疑うにせよ、聖徳太子や馬子について、もう少し踏み込んだ検討をしてほしかったですね。
東アジア諸国においては、仏教は外交上でも重要な役割を果たしており(この方面では、私は若手研究者である河上麻由子氏の研究を評価しています)、私自身は、国家のうちに仏教が取り込まれた中国・高句麗・百済と違い、周辺国である新羅と日本では、国家は仏教受容と連動して形成されていったのだ、という立場であって、そうした趣旨の論文も昔、書いたことがあります(「仏教受容期の国家と仏教--朝鮮・日本の場合--」(シリーズ・東アジア仏教5 高崎直道・木村清孝編『東アジア社会と仏教文化』、春秋社、1996年)。仏教を無視して古代の中国周辺国家や天皇制を論ずることはできないはずです。
仏教学者も敬服せざるを得ないほど仏教に通じ、三経義疏についても優れた論文を書いた井上光貞を継ぐ立場にあるのですから、聖徳太子についてはともかく、仏教関連の事柄について、大津氏独自の見解を示してくれることを期待したいところです。