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軍事施設でもあった寺々: 甲斐弓子『わが国古代寺院にみられる軍事的要素の研究』

2011年01月17日 | 論文・研究書紹介
 前の記事では、20年近く前の拙論で、上代の寺院について「城砦ともなりうる伽藍」と書いたことに触れましたが、この点を解明してくれたのが、昨年刊行された、

甲斐弓子『わが国古代寺院にみられる軍事的要素の研究』
(雄山閣、2010年)

です。

 第Ⅱ部「軍事的要素を備えた古代寺院」第一章「掘立柱柵を備えた寺々」では、甲斐氏はまず、『日本書紀』が寺を城として記した箇所に着目します。すなわち、蘇我入鹿を討ち取った中大兄が「即ち法興寺に入りて、城として備う」とある皇極四年の箇所です。

 飛鳥寺は完成時には、外郭が高さ5メートルほどの築地(大垣)で囲まれていたようですが、中大兄が走り込んだ頃は、まだ創建時以来の掘立柱柵で囲まれていたと推定されており、発掘結果によれば、その柱間の間隔は平均2.65メートル、柱径は40センチにも及んでいた由。
 
 同様の掘立柱柵の跡は、若草伽藍の西辺と北辺でも若草伽藍や斑鳩宮と同じ方位に基づく柵の遺構が発見されており、こちらは柱の直径は20~25センチと推定されています。また、山田寺の第一期では、柱間は約2.4メートル、柱径は約30センチと大きめであって、300本近い柱を必要としたとされます。

 飛鳥寺の柵を初め、回廊の外にあるこうした施設は単なる外郭施設とは思われない、と甲斐氏は述べています。「仏敵から寺を護るという意識もあろうが、その状況はまさに防御施設そのものといえよう」(136頁)というのが氏の判断です。

 甲斐氏は、他にも多くの寺々の発掘結果を検討しており、矢を防ぐために稲藁を高く積み上げた「稲城」を築いて戦った物部守屋との合戦以後に、次々に造営されていった当時の寺院の多くは、軍事的に重要な地点にあり、「防御的機能を備えてい」たことを強調しています。

 甲斐氏は、難波から飛鳥への経路に位置する若草伽藍にしても、阿部山田道沿いで飛鳥への入り口に位置する蘇我倉山田石川麻呂の山田寺にしても、重要な路に接していることに注意します。そして、その他の掘立柱柵が発見されている寺々についても、蘇我氏と密接な関係にあった阿倍氏の阿倍寺が横大路の東端に造営されていたように、海外からの使節を迎え入れる道でもあった重要道路近くに位置している場合が多いとします。これは、二時期にわたる掘立柱柵の遺構が発見されている難波の四天王寺の場合も同様です。

 こうして見ると、仏教受容期において、寺院を造営する技術者たちを蘇我本宗家から派遣してもらえたのは、どのような氏族であって、どのような役割を期待されていたか、明らかですね。最初期の飛鳥寺・豊浦寺に続いて建立された若草伽藍は、その代表例のはずです。