聖徳太子研究の最前線

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田中英道『聖徳太子虚構説を排す』の問題点(4):出典の誤記の系譜

2011年01月07日 | 太子礼讃派による虚構説批判の問題点
 田中氏が、法隆寺非再建説を主張するにあたって、自説の最も重要な拠り所である関野貞論文の初出誌に当たっておらず、出典の名を誤記し、内容を自説に都合よく改めていたことは、以前の記事で紹介した通りです。

 田中氏は、大正九年の現・法隆寺の調査では火災の痕跡がなく、「再建論者の根拠を失わせるものであった」と述べたのち、次のように書いています。

「関野氏はこの調査をもとに、法隆寺二寺説を打ち出した。これは昭和二年のことで、氏はすでに法隆寺の南東にある普門院の、その南にある塔の心楚が露出している若草伽藍跡に着目した。そしてこの若草伽藍が聖徳太子のために発願された『釈迦三尊』像を本尊として建立されたもので、これが六四三年の蘇我入鹿の乱で焼失し、本尊のみが法隆寺金堂に移し替えられた。現在の法隆寺である西院伽藍は、用明天皇のためにつくられた『薬師如来』像を本尊として推古天皇の時代に創建されたもの、という(『アルス大建築講座』)。」(31頁)

 そして、後の箇所ではこの関野説を「示唆的」と評価して非再建説を述べています。田中氏は、上記の箇所の少し前の部分で、

「この論争史を書いた藤井恵介氏は、この関野氏の判定した古建築の建立年代が現在の定説とほとんど一致し、その正確さに驚嘆せざるをえない、とさえ語っている(『法隆寺・建築』保育社)」(28-29頁)

と述べ、建築史の研究者である藤井恵介氏の評言を引いて関野説が優れていることを強調していますが、そこで名を挙げている藤井氏の本のうち、焼失関連の部分は実際にはこうなっています。

「関野貞も旧説を大幅に補強するものとして法隆寺二寺説を考えるようになった。これは昭和二年に刊行された『アルス大建築講座』に書かれたもので、塔頭普門院の南、巨大な塔の心楚が地表に露出していた若草伽藍に着目した。つまり、現在の西院伽藍は用明天皇のために発願された薬師如来を本尊として推古時代に創建されたもの、若草伽藍は聖徳太子のために発願された釈迦三尊を本尊として建立されたが、天智九年の火災で焼失し、そのまま放置されたとする」(22頁)。

 一読すれば明らかなように、田中氏による関野説の説明は、火災の年が違うことを除けば、藤井氏のこの論争史紹介と表現がかなり一致しています。前の記事では、田中氏は藤井恵介「法隆寺は再建か非再建か--法隆寺再建非再建論争の展開--」(大橋一章編『寧楽美術の争点』、グラフ社、1984年)中の関野説の紹介に基づいて書いたのだろうと推測しましたが、その3年後に同じ藤井氏によって書かれたこの文章では、前論文とほぼ同文ながら、「塔心楚」を「塔の心楚」、「現西院伽藍」を「現在の西院伽藍」とするなど、前論文の語句を固くない言い方に改めており、そちらの方が田中氏の文章と一致しています。

 したがって、田中氏が基づいたのは、藤井氏の1984年の論文でなく、それを少し改めた1987年刊行の著書の方であったことが明らかになりました。田中氏は、この書物の名を前の所で記しているため、これに基づいて関野説を紹介すること自体は、問題ありません。

 重要なのは、田中氏は藤井氏のこの著書を横に置きながら、あるいはこれを読んだ際のメモに基づいて原稿を書いておりながら、670年のことである「天智九年の火災で焼失」と藤井氏が明記している箇所を、643年に入鹿軍が山背大兄王を攻撃して斑鳩宮を焼いた際に若草伽藍も焼失した、という形に改めていることです。

 つまり、田中氏は、関野説から示唆を受けたという形で、聖徳太子が父用明天皇のために建立した西院伽藍の本尊はその際に破壊されたため、太子没後に建立された若草伽藍が670年に焼けた際に救出された釈迦三尊像を西院伽藍の本尊としたのであり、西院伽藍は太子の創建当時のままであって再建されていないのだ、とする自説を述べるのですが、藤井氏の関野説紹介だけでなく、関野の原論文も「天智天皇九年に焼失せし法隆寺は此伽藍にして其後再興されず」(86頁)と明記しています。入鹿軍による斑鳩宮襲撃の際に若草伽藍も焼けた、などとは述べていません。そうなると、その斑鳩宮襲撃の際に西院伽藍の本尊が破壊されたため、後に若草伽藍から持ち出した釈迦三尊像で置き換えた、とする田中説は成り立ちにくくなります。

 なお、気になるのは、田中氏や藤井氏以外の法隆寺関連論文でも、『アルス建築大講座』とすべきところを『アルス大建築講座』と誤記しているものを見かけることでした。そこで、その誤記がどこまでさかのぼれるか調べたところ、面白いことが分かりました。

 以下、再建非再建論争史を扱った論文を中心にして、どのように表記しているか、新しい順に並べてみます。<>の中が原文の引用で、*の部分は私のコメントです。

島田敏男「法隆寺再建・非再建論争と若草伽藍」(『法隆寺若草伽藍跡発掘調査報告(奈良文化財研究所学報第76冊)』、2007年3月):
<関野 貞 1927 『アルス大建築講座』(足立康 1941 『法隆寺再建非再建論争史』所収、龍吟社)>
 *これは正直な書き方ですね。これで問題ありません。

田中英道『聖徳太子虚構説を排す』(PHP研究所、2004年):
<関野氏はこの調査をもとに、法隆寺二寺説を打ち出した。これは昭和二年のことで、……という(『アルス大建築講座』)。>

岡本東三「法隆寺論争」(明治大学考古学博物館『市民の考古学Ⅰ 論争と考古学』、名著出版、1994年):
<関野貞「日本建築史」(『アルス大建築講座』、昭和二年ごろ。のち『日本の建築と芸術』上巻所収、昭和一五年六月)>
 *市民向けの講演であるため、ワンマン男爵であったらしい北畠治房が、現在は国宝になっている釈迦三尊像の頭をステッキでぽーんと叩き、「よく聞け、これが飛鳥の音色だ」と叫んだというひどい話や、初期の再建非再建論争が水掛論で終わったことについて、「火事の話には”水掛け”はつきもの」という野次馬的評論もなされたとか、面白い逸話満載の論争史紹介です。刊行年については、「二年ごろ」とあって分からなかったことが示されており、岡本氏の個性が感じられます。

町田甲一『増訂新版 法隆寺』「第7章 再建非再建論争」(時事通信社、1987年):
<「日本建築史《法隆寺堂塔》」アルス大建築講座七九号、昭和二年>
 *上代美術史の大家であった町田氏の法隆寺論集大成。後述します。

藤井恵介『日本の古寺美術2 法隆寺Ⅱ[建築]』「法隆寺の創建」(保育社、1987年):
<関野貞も……これは昭和二年い刊行された『アルス大建築講座』に書かれたもので、塔頭普門院の南、……天智九年の火災で焼失し、そのまま放置されたとする>
 *上で触れました。

藤井恵介「法隆寺は再建か非再建か--法隆寺再建非再建論争の展開--」(大橋一章編『寧楽美術の争点』、グラフ社、1984年):
<関野貞も……これは昭和二年に刊行された『アルス大建築講座』に書かれたもので、……天智九年の火災で焼失したとする>
 *上の藤井論争史紹介部分の元になったもので、ほぼ同じ文章。論争史紹介としては、良くまとまっています。

町田甲一『法隆寺』「第四章 再建非再建論争」(角川書店、1972年):
<関野貞『アルス大建築講座』所収「日本建築史」昭和二年>
 *後述します。

町田甲一「法隆寺再建非再建論争の経緯」(『東京教育大学教育学部紀要』15巻別冊、1969年3月):
<昭和2年発行『アルス大建築講座』所収「日本建築史」>
 *上と同じ内容ながら、形が違うのは、横書き論文であるためか。

足立康編『法隆寺再建非再建論争史』(龍吟社、1941年):
<博士は昭和二年発行のアルス大建築講座中に於てこれを公表され>
<法隆寺主要堂塔の建立年代  昭和二年 アルス大建築講座
 編者云ふ。本稿は関野博士がアルス大建築講座へ執筆されたる……第三項「主要堂塔の建立年代」の全文である。尚標題には便宜上法隆寺を冠した。>
 *論争を紹介し、重要な論文については原文を掲載したもの。関野説については、前年に刊行された下の論文集のうち「日本建築史」から法隆寺の主要堂塔に関する部分を抜粋。

関野博士記念事業会(編纂代表 伊藤忠太)編『日本の建築と芸術』上巻(岩波書店、1940年)凡例:
<「日本建築史」は、著者がアルス大建築講座と工業大辞書とに執筆された論稿を編輯して、一貫せる日本建築史を組織したものである。……昭和十五年五月  編纂委員識>
 *後述します。

以上です。

 なんと、正しく表記しているものは、一つもありませんでした。しかも、関野貞没後まもなく、伊東忠太を初めとする仲間や門弟の研究者たちによって編集され、岩波書店から出版された関野の論文集『日本の建築と芸術』上巻(1940年)の「凡例」が、既に「アルス大建築講座」と誤記していたうえ、講座の第何巻かや刊行年月を記していなかったのです。

 これが誤記の出発点のようですが、ヒドイですね。この本しか見ていないと、孫引きでなく問題の論文のうちの法隆寺の部分をきちんと読んだ人でも、初出資料の名や刊行年代をきちんと書けないことになります。

 田中氏の誤記もそのせいであって、関野の「日本建築史」論文全体、ないし足立編集の再建論争本でその法隆寺関連の部分だけを読んだうえで、著書で関野説を紹介する際、諸説を要領よくまとめた藤井氏の1987年の文章に頼って書いた可能性があります。

 田中氏が「六四三年の蘇我入鹿の乱で焼失し」(31頁)と述べている部分は、関野の原論文が「……銅造釋迦像を本尊とせし者にして山背大兄が入鹿の亂に男女廿餘人と縊死せられし斑鳩寺の塔は即ち此若草塔であらう」(86頁)と書いているのに基づいているのでしょう。関野論文は文語調ですので、「山背大兄が入鹿の乱に」としていても不思議はありませんが、田中氏の著書では「六四三年の蘇我入鹿の乱」と書かれているため、「蘇我入鹿の乱」という歴史用語があるかのような不適切な表現になっています。

 ただ、田中氏が関野論文の表現を用いているとなると、藤井氏の著書だけ読んで書いた際、再建非再建に関する諸説が並んで紹介されているため、つい勘違いして関野説を自説に都合良く記してしまった、というのではなく、関野の原論文を『日本の建築と芸術』か足立の再建論争史本で読んでおりながら、内容を自説に都合良く改めて書いている、ということになります。あるいは、「蘇我入鹿の乱」という表現も他の論争史紹介論文に基づいていたのか。今のところ、その表現を用いた論争紹介論文は目にしていませんが。

 なお、上記の一覧のうち、関野説の出典表記が最も詳しいのは、町田氏の増補版(1987年)の、
<「日本建築史《法隆寺堂塔》」アルス大建築講座七九号、昭和二年>
です。

 町田氏は、増補版を出すに当たって、「講座と記すだけではまずい」と思ったのか、メモなどを確認し直したようですね。ただ、「アルス大建築講座」という誤記はそのままですし、「七九号」という表記では、「第七号・第九号」なのか「第七十九号」なのか曖昧であるうえ、そもそも、「七九号」というのは誤りで、「七十九頁以下」となるはずです。《法隆寺堂塔》の部分の出典を詳細に記すなら、

『アルス建築大講座』第十巻(アルス、昭和二年六月)七十九頁~八十六頁。

となります。『聖徳太子虚構説を排す』「あとがき」では、「できるかぎり出典をあげたが、いちいち註をつける性格の本ではないので、遺漏がないともかぎらない」(205頁)とある通りであって、一般向けである同書の場合は、上のように詳しく書く必要はありませんが、この講座は昭和二年には複数の巻が出ていますので、第何巻であるかは表記してほしいところです。しかし、これまで巻数を表記した論争史紹介論文は一つもありませんでした。

 このような事態になったのは、一時期は隆盛を誇っていたアルス社が、こうした講座物を、入会者に対して刊行順に配布するという形で販売しており、大学図書館などでは申し込むところが少なかったことが原因と思われます。この『建築大講座』自体は特に希少なものではなく、セットや個別の巻が今でもあちこちの古書店で売られていますが、Webcat で調べたところ、大学図書館で所蔵しているのは「九大理系」だけであって、合本になっているそうです。

 国会図書館はさすがに所蔵していますが、帝国図書館時代に、各巻に連載されていた同一著者の論文を切り貼りして著者ごとにまとめて合本にしてあり、どの部分がどの巻に載っていて何年何月に刊行されたか、分からなくなっています(以前はマイクロフィルムで見れましたが、現在は館内でのみ電子資料として端末で閲覧可能)。これでは、研究者たちも所載の巻や刊行年代を確認しがたかったことでしょう。九大の合本はどのような形態なのか知りません。

 以上、「自説の根幹に関わる重要な文献については、必ず初出誌に当たって確かめる」という学問の基本ルールを守らないと、出典名の誤記が受け継がれ、孫引きが分かったり、原文の趣旨を改変していることが明らかになる場合もある、という恐い話でした……。

【追記 2011年2月12日】
村田治郎『法隆寺の研究史』(昭和24年)では、「アルス大建築講座」となっており、(86頁)、「合本してしまった今日では全く不明で、ただ昭和二年ころだつたとしか言えないのは残念である」とありました。岡本東三氏の記述の元はこれでしたね。ただ、増補原稿に基づいて没後に刊行された『村田治郎著作集二 法隆寺の研究史』(中央公論美術出版、昭和62年)では、正しく『アルス建築大講座』となってました(73頁)。