恐怖での欲求や反応を抑圧し、耐え忍ぶ勇気

2011年12月15日 | 勇気について
3-2-3-2.恐怖での欲求や反応を抑圧し、耐え忍ぶ勇気
 忍耐は、不快は甘受して、反対の快とか欲求は、これを受け入れず、抑制・排除する。恐怖の忍耐では、後者で顕著なものに、逃走への衝動(≒短絡的欲求)を抑制することがある。恐怖すると逃げ出したくなるが、勇気は、これを必要に応じて抑制する。悲鳴なども、随意的で意識して発声するものだから、恐怖しても勇気をもった意志は、これを阻止でき、悲鳴をあげないようにと歯を食いしばって忍耐する。恐怖の不快感情自体について、忍耐は、これを甘受するのだが、他方では、この不快を消去したい、恐怖を無化したいという感性的欲求をもっている。この恐怖解消の欲求についても、勇気の忍耐は、不快(恐怖)甘受の必要な限り、当然、これを抑制している。
 恐怖すると、逃走と逆に、腰を抜かし動けなくなったり、筋肉を思うように動かすことができなくなる場合もある。そこでは、勇気は、動く方が適切な対処になると判断した場合、なんとかしてこれを動かそうと、不随意化した筋肉に命令しつづけ、動く筋肉を代用にして必要な動きを確保しようと努力しつづける。萎縮してこちこちにかたまるような場合も、それをほぐし、勇気は、意志の命じる動きを確保し展開しようとする。注射が怖いひとは、つい萎縮し堅くなって、腕を出すことに躊躇し、身を引き勝ちになる。身を引きたい、腕を出したくないという衝動的な振舞いをする。これを抑えて、勇気は、身を前に進め、腕を差し出し恐怖に忍耐して、適正な対応をとる。
 恐怖の身体反応では、蒼白になるとか、震えることも顕著であるが、これらは、随意に意識で抑えられるものではない。随意の領域をはずれているので、勇気の理性意志は、これらを直接的には動かせない。しかし、それらに対抗的な随意の作用を行なうとか、その反応を抑止できる間接的な工夫を試みて、ある程度抑えることはできる。震えは、全身の筋肉に力をこめて震えにくくはできる。恐怖に震撼しつつも、サインしたり細かな手作業をしなくてはならない場合、震えを抑えなくてはならない。理性は、力を込めてみたり、逆に脱力してみたり、他方の手で支えたりして、震えを極力抑えられる方法を見出して、必要な手作業に集中することができようにする。
 逃走衝動や悲鳴については、それを抑圧する忍耐は、抑えつける方(勇気を出す理性)も、抑えられる方(逃走衝動・悲鳴への衝動)も、両方がしんどいことになり我慢することになる。だが、蒼白になったり震える場合は(腰を抜かした場合も似たものであろうが)、もっぱら理性意志側の忍耐となる。制御する理性(とその随意になる筋肉)の方は、対象を直接にはコントロールできず間接的に工夫をしてのことで、かつそれを持続させる必要もあって、大いに忍耐がいる。が、抑えられる方(震えなど)は、随意ではなく(あるいは神経が麻痺状態になって)意識内の展開にはならず、それ自身においては我慢することはないし、抑えられることに苦を感じることもない。