恐怖の不快を甘受し、忍び耐える勇気

2011年12月12日 | 勇気について
3-2-3-1.恐怖の不快を甘受し、忍び耐える勇気
 忍耐は、一般的にいえば、受け入れたい快・欲求充足を抑えて、受け入れないようにし、逆に、受け入れたくない不快(苦)・嫌悪するものは、受け入れて甘受するようにする。勇気の恐怖の忍耐も、忍耐としては、この甘受と抑制の両方をふまえたものになろう。恐怖という不快、受け入れたくないものを甘受して、これにじっと耐え続け、かつ、恐怖から逃げたい、逃走したいという欲求・衝動を受け付けず押し留め抑制する。
 勇気の忍耐が恐怖を甘受するとは、この恐怖の不快感情から逃げることなく、これを受け入れつづけることである。この恐怖の不快を避けて恐怖の事態から逃げたり、耐え難いというので酒とか薬物を使用して恐怖を無理矢理に消去したとすると、それは、忍耐できなかったということになる。忍耐は、じっとこれを受け入れ、その限りでは、その感じられる不快感を存在させ続けることになる。かつ、受け入れ、我慢しているものは、どこまでもいやなもので消去し破棄したいと内心に思いつづけているのでもある(いやでなくなったものは、気楽に受容すればよく、忍耐無用である)。へびの居場所を把握しておくために、これを見失わないようにする必要があるとき、勇気は、目をつぶらないで、見続ける。そこでは、へびが動くたびに恐怖が生じる。その生じる不快な恐怖を消滅するには、これを見ないようにすれば済むのだが(いやなことなので、そうしたいという気持ちが強くあるのだが)、そうせず、勇気の忍耐は、恐怖を甘受しつづけ、へびを見失わないようにとつとめる。  
 忍耐は、一般には、不快を、暑さの我慢大会なら、暑さを、そのままに温存して甘受するものであろう。我慢すべき暑さを自分だけが低くしたら、我慢から外れていると非難されることになる。だが、恐怖への忍耐の場合、勇気は、恐怖させられるがままに、これを受け入れ続けることもあるが、しばしば、恐怖を小さくすることをもって、より耐えやすいようにしていく。甘受するのではあるが、恐怖から逃げずこれに向かい合うことが肝要であるから、耐えやすいようにと自身において工夫する。はじめは、強烈に恐怖するが、ひとの適応能力は大きいから、だんだん慣れてくる。危険の度合いを過度に見積もることがなくなってくる。そうなると、忍耐も容易になって最後まで忍耐は持続可能となる。へびを見つけると、最初はびっくり仰天するが、見慣れてくると、穏やかな気持ちで接することができるようになる。胃ガンと知って恐怖するとき、取り乱してパニックになってしまうかもしれない。勇気をもってその恐怖を忍耐するのは、恐怖しつつも、深呼吸するなどして自身に「落ち着け!」と言い聞かせ、取り乱さない程度におさめることであろう。恐怖の度合いを小さくもっていけるように心身の有り様を工夫しつつ、胃ガンの恐怖を甘受して、これから逃亡・逃避することなく忍耐し続けるのである。

恐怖に打ち勝つ。

2011年12月08日 | 勇気について

3-2-2-1.恐怖に打ち勝つ。
 人は、強く恐怖するとき、蒼白になる。恐怖に忍耐する意志をもって、これを抑えようとしても、無理で、自動的に青くなる。では、恐怖していることと、勇気を出して恐怖に忍耐することとは変わらないのであろうか。表向きは、変わらないことがあるかも知れない。だが、蒼白になることは同じでも、その恐怖に抗して、意志がなすべきことをなすならば、勇気を出しているのである。青くなって震えるばかりで、なすべきことができないで恐怖にとらわれていたら、臆病にとどまっているのである。
 恐怖しているひとは、震えて萎縮し逃走衝動をもったりする。その自然的な感性にしたがうことが理にあっているのなら、勇気は、これを受け入れる。しかし、恐ろしくても逃げ出さず何かを実行する必要がある場合は、勇気は、恐怖に震えながらも逃走衝動を抑止し、これを乗越えて、理性の意志を貫き通す。勇気は、恐怖を耐え忍び、これに打ち勝ち、理性の自由を実現する。
 恐怖に忍耐している勇気も、恐怖に単にとらえられている状態も、恐怖感を抱いている点では、さしたる違いはない。だが、ひとの尊厳をなす自律的理性がそこで働いているのかどうかの違いは、大きい。恐怖する感性的自己のみがこころの全体を占めるのか、それとも、理性がこれを見張り勇気をもって、その恐怖から逃げないで、この自然に一歩距離をおきつつ理性の意志を貫徹するのかは、ひとの尊厳を守るか否かのちがいとなる。へびに恐怖する者は、自然的には、その恐怖の対象から遁走しようとしたり、見ないようにと目をつむり、恐怖状態を回避しようとする。だが、理性は、見続け観察することが必要となれば、この恐怖から逃げず、顔をゆがめゾーとしつつも、これに耐え恐怖に打ち勝つことができる。勇気が恐怖への忍耐を持続させ、理性の意志を貫いて観察を続ける。
 恐怖で逃走衝動をもったとしても、理性の勇気は、これを抑制して、逃走を阻止することができる。衝動を抑止して、勇気の忍耐は、恐怖に打ち勝つ。恐怖しつつ、行動を理性の命じるように進めていく。注射の怖いひとは、注射を見ると、思わず後ずさりする。だが、意志は、勇気をふるって、体が後ろにさがるのを阻止して、前に身体を動かす命令をだし、震えを抑えながら、腕を前に出す。勇気は、恐怖に打ち勝って、理性の自由を実現する。
 ひとは、自然のなかでの弱者である。強ければ、危険はなく、恐怖はなく、したがって勇気もいらない。弱いから、勇気が必要となる。危険なものを前に、ひとは、これに恐怖して、こころのなかは大嵐に見舞われるかもしれない。それでも、ひとは、おのれの感性に埋没せず、自律の理性を堅持できる。恐怖は同じように抱くとしても、これに支配されず、理性は感性(恐怖)に距離をとりつつ、その意志を貫いていく。勇気は、恐怖に忍耐しつつ、できれば、これをたやすく耐えられるように工夫しながら、理性の目標を貫いていく。最終的には、弱者であった者が、勇気をもつことで恐怖を忍耐してこれに打ち勝ち覇者となる。


恐怖に耐える勇気

2011年12月05日 | 勇気について

3-2-2.恐怖に耐える勇気 
 勇気は、恐怖心を抑制する。自然的な生防衛感情としての恐怖を、それが人間的生にとってマイナスになる場面で、制御していく。恐怖する感性を、理性の勇気が抑圧する。恐怖は、生保護の根本感情として、強力に貫徹されていく。それを勇気の理性は、制御しようというのであるから、勇気には、強靭さが求められる。恐怖は猛烈な不快となることがあるが、勇気は、必要なら、これをしっかりと受け止めて、これに耐えつづける。
 勇気は、果敢なものとしては、攻撃的な闘志であるが、恐怖を(制御し)忍耐する勇気は、そとに対しては、そとから見ると、静的で非攻撃的にとどまる。恐怖は、危険なものを撃破するような攻撃性はもたず、あくまでも受身で非攻撃的に危険を回避する。同様に、恐怖に忍耐する勇気も、そとの危険なものに対して攻撃的になるものではなく、自身のうちの恐怖心を対象として、これの制御に専心する。ただし、そのうちなる恐怖心に対しては、積極的攻撃的である。恐怖の自然的対応が理に合わなければこれを阻止し、これを支配し心のうちに閉じ込め抑止しようと戦う。
 勇気が、恐怖に忍耐するという場合、恐怖から逃げることなく、これに正面から向き合って対決し、その不快を甘受することになる。胃ガンと分かってこれに恐怖することがあろう。勇気は、恐怖の胃ガンと向き合い、恐怖を甘受して耐え忍びつつ、取り乱さず、ことに平然と対処する。もちろん、生じた恐怖を保存しようというのではなく、恐怖を制御して恐怖に打ち負かされないように、恐怖の事実から逃げないようにするものである。恐怖をよりよく耐えるために恐怖を小さくできるのならそうして、気を確かにもって、恐怖の事態から逃げず忍耐しつづける。  
 敵に見付かったら殺されるという場面で、隠れてじっとしているとき、恐怖は、逃走衝動をもったり、悲鳴をあげそうになったりするが、これを抑えて、じっと耐え続けるのが勇気である。恐怖を解消するためにも、攻撃に出ていきたいという欲求も生じるであろうが、それをすると確実に殺害される状況にあるのであれば、これもしっかりと抑圧して耐える。なによりも、危険なものを前に耐えがたい恐怖の不快感の生じるのを、勇気は、うちに留めて甘受し耐え忍ぶ。
 恐怖の忍耐と、果敢な闘志のどちらが勇気にとって、より困難かだが、前者は、苦痛・不快を甘受してこれに耐え、かつ、逃走衝動などの自然欲求も抑える。後者では、不快は、あまりなく、優越して破壊欲を満たし、うまくいけば、痛快で達成感も大きなものとなる。恐怖への忍耐の方がより困難であろう。果敢の勇気は、自然により近い。果敢な攻撃は、動物も大いにする。だが、恐怖への忍耐は、自然に反した営みである。殴るのは、むずかしいことではない。だが、殴られるのをじっと忍耐するのは、そう簡単にできることではない。


恐怖は、勇気に先立って危険に対処する。

2011年12月01日 | 勇気について

3-2-1.恐怖は、勇気に先立って危険に対処する。
 「恐怖」は、不快感情で、よい印象がもたれないのが普通である。「なければいいのに!」とすら思われることもあろう。だが、恐怖があるから、危険な目にあまり合わず無事に生きておれるのである。町に一歩でても、自動車や自転車の危険を感じて恐怖するということがなかったら、頻繁に事故にあうことであろう。危険に恐怖を感じるから、これを避けることがおのずからに可能となり、無事に済んでいるのである。勇気は、危険・禍いの排除の大役を担うが、日頃の危険の回避は、圧倒的に恐怖が行っている。勇気はなくても、生は無事であるが、恐怖心がなくなったら、その生は、そう長く無事ではおれない。
 だが、ひとは、自然を超えて高度な社会的精神的な生活を営む。自然的な恐怖だけにしたがっていたのでは、逆に生を保護できないようなことが生じる。樹上の猿とちがい、ひとは、高所を自然的には恐怖する。ビル火災で6階の非常階段から脱出するとき、高所恐怖に過度なひとは、足がすくんで動けなくなる。その自然にしたがっていたのでは焼死することになる。恐怖心を抑えて勇気を出して足を運ばねばならない。事件や事故でけが人が出ている場合、青くなっておろおろするのではなく、恐怖心を抑制して、救急車を呼んだり、けがの応急手当てをするといった勇気ある冷静な行動をとることが求められる。理性的存在としてのひとは、自然的な恐怖を大切にしつつ、それだけでは、危険回避ができないとか、逆効果になったりする場面では、過度になりがちの恐怖心を抑制して、理性の勇気をもって対処する。
 勇気は、自律的理性の展開するもので、能動的攻勢的に内外の自然(恐怖心とそとの危険なもの自体)と対決し闘志をもやす。だが、恐怖心は、あくまでも、受身であり、受動のもとで危険の回避につとめる。非攻撃的に危険からおのれを守ろうとするだけである。危険なものの前から逃走したり、見付からないようにと不動になったり、被害を小さくしようと萎縮して構える。勇気のような攻撃的な姿勢は一切もたないのが恐怖心による危険なものへの対処法である。かりに、その感情が攻撃的になるとしたら、それは、恐怖ではなく、怒りになる。
 恐怖にしたがっていたのでは、生にマイナスになるという場面で、勇気が登場するが、勇気の発揮される場面でも、恐怖心は、しばしば有意に働き続けている。勇気が無謀に陥ることを制止するのは、冷静な理性の判断によるとともに、恐怖心によっていることも多い。激流を足下に見る丸木橋を渡るとき勇気が要ろうが、酒でも飲んでおれば、大胆になる。だが、鼻歌交じりで渡っていたら、ひとの場合、猿とちがい足は二本しかなく、しかも丸太を握る機能も失っていて、安定性がわるく、おそらく足をすべらせて激流に落下してしまう。落下しないように慎重にさせるのは、生をしっかりと守るのは、恐怖心になる。過度の恐怖心は抑えないと渡ること自体が困難となるが、これを抑えつつ勇気は、恐怖にしたがい慎重になって無事に渡河するのである。