外からは見えない勇気-恐怖への忍耐は、平然としている。

2011年12月19日 | 勇気について
3-2-4.外からは見えない勇気-恐怖への忍耐は、平然としている。
 「勇気を出す」というが、果敢な攻撃の勇気は、危険なものを撃破するから、そとに行為として現れて、周囲からよく分かる。だが、恐怖を忍耐する方の勇気は、心中の恐怖を制御するのだから、出すといっても外からは見えない。身体反応の部分は見えるが、それも逃走とか悲鳴とかを抑制し、平然とした対応をとるので、恐怖しているのかどうかも分かりにくい。恐怖に忍耐する勇気の理想は、平然とした対応ができることである。そこには、恐怖も見えず、勇気も見えない。心中は、大嵐で、恐怖に戦戦兢兢とし、勇気は己の感性(恐怖)をおおわらわで抑制しているのであるが、それをどこまでも心の中で忍び耐えて、そのおもては、平然としている。それがこの勇気の理想であろう。
 ひとの尊厳は、理性の自律にある。自然感性を理性が支配し自由にできることにある。勇気では、恐怖への忍耐において、感性(恐怖)への理性の制御・支配が端的であり、ひとの尊厳がそこにある。果敢の勇気の方は、攻撃に勢いをつけようとするもので、自然にさからったものではない。が、恐怖を忍耐する勇気は、いわば、殴られる苦痛を身に引き受け忍ぼうというのであり(動物なら逃げるのを、ひとは、逃げずに耐えるのであり)、自然感性を抑圧し、反自然・超自然の理性的立場を顕在化させる。だが、そのことは、心中の展開として、外からはかならずしも見えない。なにごともないかのように、平然として見えるのみである。この勇気において、おのれの尊厳は、おのれは知っているが、他人には必ずしも明確ではない。
 勇気は、恐怖に忍耐することを肝要とする。その忍耐は、こころのなかでの問題であり、勇気は、こころの有り方が肝要ということになる。正義の場合、こころはあまり問題ではない。なにを行うかという事実が大切である。試験で「カンニング(不正)をしたいな」と思うことは、罪にはならない。不正は、実行してはじめて罪となる。だが、勇気の場合、こころの問題が中心になる。果敢に勇気を出しているように見えたとしても、内心では脅えきっていたのだとしたら、いくら、ひとから「勇敢だった」と称賛されたとしても、少しも嬉しくはないであろう。自分の臆病であったことを自分は、よく知っているのである。 
 正直とか好意とかも勇気と同じくこころが肝心である。いくら、好意的に見えていても、内心は打算的で嫌悪でもしていたとしたら、好意的ではないことになる。正直も、本当は嘘をつこうとしていたのだったら、正直ではなくなる。これらは、こころが正直・好意的なら、事実が反対になったとしても正直であり好意的である。ただし、これらは、周囲にそれがなんらかの形で表現されてのものでもある。そとに出さない正直・好意は、まだ正直でも好意でもない。だが、恐怖を忍ぶ勇気は、内心のものであり、かつ、そとに出さない。そとには、なにもないかのように平然としているのが理想である。