危険はゼロにすべきだが、恐怖もゼロにするのがいいのか。

2011年12月26日 | 勇気について
3-2-6.危険はゼロにすべきだが、恐怖もゼロにするのがいいのか。
 恐怖は、不快な感情だから、できれば感じることなしに済ませたい。そのことが危険消去と一体ならば、良い。だが、危険がそこにあるのに、不快感だからというので、恐怖をなくすることは、考えものである。恐怖をゼロにして安堵感にひたっておれば感情的には楽であるが、その危険は見逃されがちとなろう。自然的に恐怖感が生じるということは、危険がそこにあるということである。であれば、強烈な不快感にならない程度の恐怖感は、残しておくべきであろう。
 恐怖できるというのは、能力である。「怖いもの知らず」は、感情的には楽でよさそうだが、危険を簡単には察知できないことになるから、大変である。ひとは、高いところを恐怖する。猿は、樹上で平然としているから、うらやましいが、彼らが樹上で平気なのも、ひとが高所を怖がるのも、理にあった感情的反応である。あのかわいらしいチンパンジーですら、その腕力はとてつもなく強力である。だが、ひとにはもうぶら下がって樹間を渡っていくような手足の能力はない。高所を恐怖して当然である。高いところは危険で、恐怖せず平気だったら慎重にかまえることがなくなり、たちまち落下して死傷の憂き目にあうこととなる。
 巨大な危険が迫っているのに、それを察知するだけの恐怖心をもたずに、大禍に遭遇するようなこともある。集団になると、危険への恐怖感が増幅されてパニックになることもあるが、逆に鈍感になってしまうこともある。皆が危機感をもち恐怖していたらパニックの方に向かうが、逆に、自分が恐怖していても周囲の多くが平然としていたら、そちらに流される。9.11(テロでツインビル崩壊)でも、3.11(東日本大震災)でも、助かるはずの人が危機感をもって対応できなかったために死亡するということがあったようである。9.11では、悠長に構えて、歌を歌ったり避難途中で休憩をとっている集団がいたという。3.11では、10メートルの津波が来るとラジオがいっているのに聞き流したり、そう周囲の者に伝えても、ぐずぐずして避難をしないひとも多くいたという。安易に構えて多数が命を落としたのである。巨大な危険だと感知すれば、恐怖して大急ぎで逃げるはずを、10メートルの津波といっても、体験したことがなければ、過去に見聞した小さな津波に似たものとみて、その危険度を低く見積もることになったのであろう。
 戦争状態になると、死への恐怖は小さくなり、ついには、死が平気になったりもする。今大戦の沖縄戦では、少年・少女が最期、集団自決するような悲惨なことにもなった。手榴弾を囲んで平然と爆死していった(たまたま、不良品だったため生き残った少年が後にそう話している)。肉弾戦を見聞きし、死が日常事になった状況下では、自分の生死も羽毛よりも軽いものに感じられたのであろう。微塵も恐怖を感じることなく、少年たちは自決の道を選んだということである。