恐怖するところで勇気を出す。

2011年05月20日 | 勇気について
1-4.恐怖するところで勇気を出す。
 勇気が求められるのは、禍いに遭遇したり、闘いでダメージを受けたりするような、危険が想定される場面になる。危険に対しては、ひとは、恐怖の感情をもって対応する。恐怖は、危険なものへの防御・予防感情で、これがあるから、おのずからにして、危険なものからの危害を避けて身を保護することが可能となるのである。危険なものへの恐怖がなかったら、おそらくいくつ命があっても足りないことであろう。だが、過度の恐怖にとらえられると、冷静で的確な対応ができなくなる。恐怖にパニックになったり逃走するのでは、戦えなくなる。勇気は、この恐怖を抑制して、冷静な対処に努める心の構えである。
 勇気は、恐怖あってのものである。恐怖がなければ、勇気は影を薄くする。へびが怖くないものには、勇気は無用であろう。怖いから勇気が求められるのである。高いビルの外壁にある非常階段から緊急脱出するとき、「勇気を出して」と励ますのは、高所恐怖のひとに限られる。高所の平気なひとに対しては、「あわてず足元に気をつけて」ぐらいになる。恐怖があっての、恐怖に対しての勇気である。
 恐怖心を抑えることだけですべてが済むものなら、それで「勇気がある」ことになる。だが、恐怖のもとになる危険の排除が求められている場合、そこまでいかないと、「勇気がある」とは言いにくいであろう。へびの怖いひとが、それを見て恐怖心を抑ええているとしても、へびをつまんで外にだすことが求められているのであれば、見ることができているだけでは勇気には欠ける。それをつまむ積極的な行動にまで進んではじめて「勇気ある」者となるであろう。高所の非常階段でぶるぶる震えている者が、目を瞑って恐怖をおさめただけでは、まだ「勇気がある」とはいいにくい。下へと降りる行為に出るべきならば、それにチャレンジする気力を奮い起こして、足を踏み出してやっと「勇気を出す」ことになるのではないか。
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