勇気を中庸ととらえたアリストテレス

2011年05月27日 | 勇気について
1-6.勇気を中庸ととらえたアリストテレス
 闘う者、勇士の徳である「勇気」は、大胆・果敢さが極大で、恐怖が極小・ゼロになることをもって、最大の勇気となるように一見思える。だが、アリストテレスは、これをほかの節制などの徳と同様、「中庸」に求めた。ほどほどの大胆、ほどほどには恐怖をということである。
 勇気の大胆さ・果敢さが極端になって、無謀・暴勇になると、見境のないことになって、激怒がそうであるが、破壊してはならないものまでも攻撃して破壊してしまう。徳となる勇気には、正確に攻撃できる理性的冷静さがいる。自分の足を刺す蚊をつぶすのにハンマーを振り上げるような愚かなことをしてはならない。怒りの感情などにまかせて無謀に攻撃するのではなく、ほどほどに中庸にということである。他方、大胆さを欠いて、ぐずぐずしたのでは、攻撃はならない。優柔不断・無気力・弱腰では、たたかれ後退し打撃を受けるだけとなり、たたき戦うところに成り立つ勇気は見る影もない状態となる。無謀でなく弱腰にならず適切な程度において、大胆に、果敢になるべきなのである。
 恐怖は、危険なものへの反応だから、これがないと、危険の意識そのものがおろそかになる。危険なもの・恐ろしいものには、恐怖すべきである。それがゼロでは、不感症・鈍感になって対応を誤る。断崖絶壁では足がすくむ方がいい。ただし、過剰に反応したのでは、腰を抜かしたりパニックになったりして、冷静に適切な形で対応することができなくなる。臆病でなく、かつ鈍感にとどまることなく、ほどほどの恐ろしさをもつことがいる。
 勇気は、「恐怖と大胆とについての中庸」だとアリストテレス『ニコマコス倫理学』は論じる。恐怖について、これは必要だが、冷静な対応ができるように、ほどほどに中庸にと。攻撃的な面では大胆・果敢にだが、これも過ぎると無謀となるから、ほどほどに適正に中庸にと。
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