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「首都」固定概念の超克

2017-12-08 | 時評

トランプ米政権が、エルサレムをイスラエル首都として公式に認知するという禁断策に手を付けたことで、中東の火に油を注ぐ結果を引き起こしている。もっとも、対立と分断の火種を作り出し、戦争を大衆動員の手段とすることはファシスト体制の定番であるから、今回の決定はトランプ政権のファッショ的性格をまた一つ露にしたものと言える。

しかしここではファシズム云々ではなく、全く別の角度から問題を評してみたい。それは、そもそも「首都」なんて必要ない!ということである。「首都」とは国家権力の中枢が集中している都市を指すが、それは根本的に中央集権国家の所産である。国家という化け物には頭と尾の区別が不可欠で、頭の部分が首都となるのだ。

もっとも、国家も分権化が進むと首都も分散されていく傾向にある。実際、ドイツのように、立法/行政と司法が別の都市に分散されていたり、南アフリカ共和国のように、立法・行政・司法の三権がそれぞれ三つの都市に分散されている例すら出てきており、「首都」の概念は相対化されつつある。

中央集権制の強いイスラエルの場合は、立法・行政・司法すべてをエルサレムに集中させているため、そうした「現実」を考慮して「首都」と認知するというのがトランプ政権の口実である。実際のところは、「分離壁」によるアパルトヘイト政策を推進する現イスラエルへの親近感が禁断決定の背後にあるに違いない。

しかし、エルサレムは中東生まれのユダヤ・キリスト・イスラームの三大宗派すべてが「聖地」とみなす聖都としての意義を担っており、単に一国家の首都をどこに置くかという問題を越えた複雑さを有するため、「首都」の概念は宗教戦争を内包している。むしろ、中東三大宗派の共同聖地というより高次の現実を考慮し、三大宗派の「共同聖都」と認定するほうがよほど賢策であろう。

2009年には、スウェーデンがエルサレムをイスラエル・パレスティナの共同首都とするよう求める折衷案を提案したが、エルサレムを永遠の首都とみなすイスラエルの強い反発・抗議にさらされた。「首都」概念に固執する限り、この問題はパレスティナ紛争とともに永遠に未解決であろう。

「首都」概念の最終的な超克は、国家という観念の揚棄によってのみ可能である。すなわち、領域圏の概念である。領域圏には民衆代表機関―民衆会議―の所在地としての代表都市はあっても、「首都」概念は存在しないからである。エルサレムであれば、例えばイスラエル‐パレスティナ合同領域圏の代表都市として止揚され得る。


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