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ザ・コミュニスト

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奴隷の世界歴史(連載第38回)

2017-12-19 | 〆奴隷の世界歴史

第五章 アジア的奴隷制の諸相

朝鮮の奴隷制
 朝鮮の奴隷制は、半伝説上の王朝である漢族系の箕子王朝の祖・箕子が制定したとされる刑法・犯禁八条に、「窃盗犯は奴隷とする」とあるのが記録上の起源とされるが、箕子朝鮮自体の実証性が不充分であるため、歴史的に確定することは難しい。
 歴史的に確定できるのは、朝鮮では統一新羅が導入し、続く高麗王朝時代に確立された律令制の下、奴婢制度が定着したことである。朝鮮奴婢制度も中国を起源とし、との別があったが、の母が産んだ子は必ずとし(随母法)、過去八世代にわたり家族にがいないことを官吏登用の要件とするなど、朝鮮の奴婢制度はその階級的厳格さを特徴とした。
 人身売買されるの待遇は極めて劣悪であったことから、高麗で軍人が政権を簒奪する武臣政権の混乱期を迎えた1198年には、の万積が公私の同志を募って武装蜂起し、時の武臣独裁者・崔忠献の暗殺を企てたが、失敗し、関与者が大量処刑されるという奴隷反乱も発生した。
 日本の奴婢制度が律令制の形骸化に伴い、廃止され、武家政権期には消滅したのに対し、朝鮮では高麗を打倒した軍閥の李氏政権も王朝の形態を採ったから、律令的特色を持つ奴婢制度も引き継がれることとなった。李氏朝鮮王朝下の奴婢制度の特質として、の種類が専門分化していたことがある。
 例えば、王族や両班など上流階級女性の診療を専門とする婦人科医である医女は女子の中から選抜された身分の医療者であった。他方で、医女は歌舞音曲も体得した芸妓を兼ねていたことから、宮中接待や高位者向けの性的奉仕を専門とする身分である妓生との異同が曖昧となり、宮中の風紀紊乱を引き起こす結果となった。
 暴君として知られる第10代国王燕山君の側室となった張緑水は妓生出身ながら王の寵愛を独占し、王府人事にも介入する専横を働いて悪名を残した。彼女は燕山君廃位後、処刑された。一方、日本の豊臣秀吉軍の侵略を受けた壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の時には、慶尚道晋州城を占領した日本軍武将の接待を命じられたことに乗じ、武将を岩の上に誘い出し、だきかかえて共に川に投身したと伝えられる論介のような愛国的義妓も輩出している。
 の反乱は李氏朝鮮下でも、壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)に際して発生する。かれらは身分を脱するべく、身分の証拠記録となる戸籍を燃やすという挙に出たのであった。一方、王府側も戦費調達のため、有償で身分を脱することを許したため、結果として人口は減少した。
 とはいえ、身分差別が厳格な李氏朝鮮では妓生廃止論が時折提起されることはあっても、奴婢制度自体の廃止論は見られず、人身売買の禁止とともに奴婢制度の最終的な廃止は王朝末期1894‐95年の近代的改革―甲午改革―を待つ必要があった。


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