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「女」の世界歴史(連載第13回)

2016-03-07 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

⑤古代日本の女権
 古代日本は中国から多くの文物を摂取したことは周知のとおりであるが、中国王朝とは対照的に、かつ同時代の古代国家としても異例なほど女帝を多く輩出した。当時の日本の女権に関する観念は、東アジア全体でも相当に異質的であったようである。
 記録上、日本最初の女性君主と目されるのは邪馬台国の女王卑弥呼である。邪馬台国の主要な情報源である中国史書『魏志』によれば、本来は巫女である彼女が登位した経緯は通常の王位継承によるものではなく、その宗教的な権威を利用して小国間の内乱を平定し、ある種の連邦国家を創設するためとされる。
 従って、邪馬台国自体が一種の平和条約体制であったと考えられ、卑弥呼の役割は統合の象徴的なもので、政治的な実権はほとんどなかったとも想定できる。卑弥呼の没後はいったん男王が継いだが、再び内乱となったため、卑弥呼の親族に当たる台与が女王に就いたとされる。しかし台与の治世及びその後についての詳細な記録はなく、邪馬台国の情報は途絶える。
 その後300年以上を経て、いわゆるヤマト王権が確立された6世紀末に出た推古天皇(当時まだ天皇号はなかったが、ここでは便宜上天皇呼称に従う)を皮切りに、8世紀の奈良朝にかけてのべ八代(実数では六人)の女性天皇を輩出する時代を迎える。なかでも奈良朝時代はのべ四代、通算で32年にわたり女性天皇の治世を経験した「女帝の時代」でもあった。
 対照的に女性天皇が法律上否定されている今日からすると、時代が逆転しているかのように古代日本に女性君主が多数輩出された理由は、定かでない。ただ、弥生時代に属する卑弥呼は別として、飛鳥・奈良時代の女性天皇の出自をみると、いくつかの特徴がある。
 まず飛鳥時代の推古、皇極=斉明(重祚)、持統の三天皇はいずれも皇后を経験している。言わば、皇后からの昇格型である。ただし、推古朝では聖徳太子及び蘇我馬子、皇極朝では蘇我入鹿、斉明朝では中大兄皇子といった男性執政者が実権を持ち、女性天皇に実権はほとんどなかったようである。筆者は、推古天皇については自身も王位に就いた蘇我馬子との共同統治、皇極=斉明天皇は正式の「天皇」ではなかったとする異説に立つが、ここでは行論上『日本書紀』をベースとする通説に従っておく。
 しかし、持統天皇は夫の天武天皇から早世した実子の皇太子草壁皇子の遺子(後の文武天皇)につなぐまでの中継ぎのように見えながら、上皇時代を含めた自身の治世では律令的天皇制国家の確立を主導するべく、専制的な権力を振るっており、中継ぎ以上の「本格派」女帝であった。
 持統天皇はまた女性官僚の登用にも熱心で、藤原氏隆盛の基盤を築く藤原不等比と再婚して光明皇后を生んだ橘三千代のような有力女性官僚を輩出させた。奈良朝の三人の女帝はいずれも持統天皇の血縁者たちであり、奈良朝はフェミニスト持統天皇によって開かれたとも言えるかもしれない。


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