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「女」の世界歴史(連載第15回)

2016-03-22 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅰ部 長い閉塞の時代

第二章 女性の暗黒時代

[総説]:男性優位社会の確立
 古代国家の時代、女性の地位はすでに後退していたが、古代国家には女王・女帝の姿も見られた。しかし、古代を過ぎると女性の地位はいっそう低下し、「魔女狩り」のような大量的な女性抑圧事象も経験する暗黒時代となった。
 そうなった要因として、ポスト古代国家は戦士の時代だったことがある。欧州では騎士が社会の主役となったし、極東の日本でも武士の台頭が見られた。イスラーム世界も、イスラーム教団そのものが同時に戦士団でもあった。
 戦士は身体能力的に専ら男性の仕事である。そうした戦士が中心に立つ社会は必然的に男性主導型社会となり、女性には家庭の奥にあって夫を支える内助の功が求められる。女権はタブーとなり、「女性権力者=悪女」というイメージも高められたであろう。
 こうした女性の周縁化は、女神も活躍する古代の多神教に代わって、キリスト教やイスラーム教のように父権的な性格の強いセム系一神教の創唱と国際的な普及によっても後押しされ、男尊女卑思想も広まっていった。
 しかし、そうした中でも例外的に台頭し得た女傑は存在する。女傑たちは正式の政治的・軍事的な地位を得られなくとも、事実上の権勢家あるいは自ら戦士として男性たちを導くことさえあった。だが、そのために悲劇的な代価を支払わされることもあった。
 第二章ではこうした女性抑圧体制の世界歴史的な諸相と、その中にあって存在感を示した東西の女傑たちの事例を取り上げ、暗黒時代における「女」の姿をとらえていく。

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(1)女権抑圧体制の諸相

①キリスト教と女性
 ヨーロッパ中世における女性の受難を最初に予告した事件は、ローマ帝国東西分裂後の西暦415年に起きた女性哲学者ヒュパティアの虐殺事件であった。
 ヒュパティアは、プトレマイオス朝時代以来の伝統を持つエジプトのアレクサンドリア図書館の最後の館長を務めた天文学者・数学者にして哲学者でもあったテオンの娘にして、自身も文理にわたる広範な学識を持つ新プラトン主義の哲学者であった。
 ヒュパティアはアレクサンドリアの新プラトン主義の学園で哲学の講義を行っていたが、父と同様、天文学や数学に通じていた彼女の教えは、迷信を排し、自ら思考することの大切さを説くある種の科学的なものであったがゆえに、危険視された。
 というのも、時はローマ帝国がテオドシウス帝の治下、キリスト教を国教化して間もない頃で、キリスト教会の権勢が強まっていたからである。ヒュパティアの学問は、キリスト教の見地からは異端的であった。
 412年、原理主義的なキュリコスがアレクサンドリア総司教に就任すると暴力的な異端排撃の風潮は最高潮に達し、ついに415年、ヒュパティアの虐殺が起きる。学園への出勤中、武装した修道士に襲撃された彼女は、馬車から引き摺り下ろされ、教会内に連れ込まれて牡蠣の貝殻で生きたまま肉を骨から削ぎ落とすという残酷な方法で殺害された。明らかに見せしめのリンチ殺人であった。
 ヒュパティアの虐殺はアレクサンドリアの知識界に衝撃をもたらし、学者たちの亡命とギリシャ学問の終焉のきっかけとなったと評されるが、ヒュパティアがここまでむごたらしく見せしめにされたのは、女性だったこともあっただろう。ギリシャ哲学の長い伝統の中でも、女性哲学者は極めて異例であり、その異端性を倍加させていたからである。
 ヒュパティアの時代にはまだ「魔女狩り」は起きていなかったが、女性でありながら男性を相手に堂々と学問を説く彼女の存在は、キリスト教徒男性にとって魔性的な脅威と映ったはずである。
 一般的に、キリスト教は教義上女卑的であるわけではなく、原初教会には女性司祭も少なくなかったとされるが、ヒュパティア虐殺事件のあった5世紀頃までには女性司祭は排除されていたという。これは教義上よりも教会制度上の変化である。
 ちなみに、新約聖書でイエスの女性従者とされるマグダラのマリアも、その出自に関する確証はないにもかかわらず、カトリック教義ではいつしか「悔い改めた娼婦」であるとされるようになったのも、女卑観に基づくものと言えるかもしれない。

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