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戦後ファシズム史(連載第27回)

2016-03-28 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐1:韓国の開発ファシズム
 韓国現代史上1961年の軍事クーデターから87年の「6.29民主化宣言」までは軍部が政治の中心にあったが、このおよそ四半世紀を仔細に見ると、単純な軍部独裁体制ではなく、経済開発を至上価値とする不真正ファシズムの特徴を認めることができる。
 その出発点となったのが、1961年の朴正煕将軍を中心とする少壮軍人によるクーデターであった。これは前年の「学生革命」により独立・建国以来の李承晩政権が倒れ、民主化移行期にあった中で、社会の左傾化を恐れる少壮軍人らが仕掛けた反革命的な政変であった。
 「革命公約」なるものを掲げた軍事政権は、その筆頭に「反共体制の再整備」を挙げ、これを軸とした国家体制の全体主義的な再編を狙っていたことからも、この政権は反共擬似ファシズムの性格を示していた。革命公約は最後に「革命事業の完遂後、清新な政治家への政権移譲」を挙げていたが、クーデターから二年後の63年には、朴自身が軍を退役して自ら民選大統領に就任し、形式上民政移管を実行した。
 これ以降の朴体制は出身の軍部を基盤としながらも、包括的右派政党の性質を持つ民主共和党を与党とする民政に衣替えして79年まで継続していくが、それは南北分断状況の中で、北韓(北朝鮮)との対峙を名目に、民主化運動や野党を弾圧する不真正ファシズムの体制であった。
 対外的には一貫した反共親米政策の下、とりわけベトナム戦争で異例の全面的な協力体制を取り、同盟国中では最大規模の支援部隊を派遣した。結果として、韓国軍は米軍とともにいくつかの反人道的作戦の協同者ともなった。
 一方、経済的には旧宗主国日本からの経済援助をベースに、ベトナム戦争特需も加わり、短期間での急速な経済開発・成長を主導した。そのために、国内の反対を押して65年には韓日国交正常化を果たし、対日請求権を放棄する策に出たことは、慰安婦問題の積み残しなどの禍根を残すこととなった。
 ただ、朴政権下の60年代後半から70年代にかけて、「漢江の奇跡」と呼ばれる急激な経済成長が見られたことは事実である。その面から言えば、韓流開発ファシズムは成功例の一つに数えられるが、それは抑圧体制下での多大な人的犠牲を代償としていたことも否定できない。
 朴は自身が制定した憲法の多選禁止規定を消去し、落選の危険のない大統領間接選挙制を導入するため、72年に非常戒厳令を発動して国会を翼賛機関化する憲法改正を強行し、事実上の終身政権への道を開いた。これ以降の朴政権(いわゆる維新体制)は真正ファシズムに限りなく接近し、この間、野党指導者金大中(後に大統領)拉致事件をはじめとする弾圧・冤罪事件が続発している。
 しかし磐石に見えた朴政権は79年、大統領暗殺という衝撃的事件によって突如終焉した。犯人が側近の金載圭中央情報部長だったことも衝撃を倍加した。中央情報部こそは、朴体制を支える中心的な政治弾圧機関だったからである。
 金載圭はスピード審理で死刑判決を受け、翌年には処刑されたため、背後関係を含めた事件の詳細な真相は不明のままであるが、彼の決死行動は結果として民主化の機会をもたらした。「ソウルの春」とも呼ばれたこの民主化チャンスはしかし、故・朴大統領子飼いの全斗煥将軍を中心とする少壮軍人グループによる新たなクーデターにより奪われた。
 1961年クーデターをなぞるような過程をたどって80年以降全斗煥政権が樹立されるが、この政権は朴政権の事実上の後継政権としての性格と民主化準備政権としての性格を併せ持つ両義的なものであるので、項を改めて見ることにする。


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