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「女」の世界歴史(連載第16回)

2016-03-23 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

②ゲルマン王権とサリカ法典
 西ローマ帝国がゲルマン人傭兵によって滅ばされて以降、西欧社会はゲルマン人を軸とした騎士封建社会を迎えるが、その中心を担ったのは、多岐に分かれたゲルマン人諸部族の中でも強力なフランク族であった。
 フランク族系統一王国の嚆矢となったメロヴィング朝は、その開祖クロヴィスの時代にサリカ法典と呼ばれる重要な基本法を制定した。この法典を有名にしたのは、女子の土地相続権を否定する条項である。フランク族を含むゲルマン民族の部族慣習によると、土地は父系男子の間で分割相続されたことから、サリカ法典にもこうした規定が明文をもって引き継がれたと考えられる。
 ただ、これはあくまでも不動産としての土地の相続に関する条項であるところ、拡大解釈されて、王権の継承にも適用されるようになった。おそらく国土は包括して王に属すると観念されるところから、このような拡大解釈が生まれたのであろう。
 その結果、ゲルマン系諸王朝では女性または女系子孫の王位継承は法律違反として禁じられることになった。この原理はフランク族の流れを汲むカペー朝の血統が続いたフランス王国では暗黙裡に最も厳格に貫徹され、結局、他の多くの欧州諸国とは対照的に、フランスでは市民革命を経て19世紀の最終的な王制廃止に至るまで、一人の女王も輩出することはなかった。
 このような女権排除は当然にも、先王に男子がない場合には深刻な後継者問題を生じさせることになる。この問題が最初に現実化したのは、カペー朝12代のルイ10世が1316年に死去した時である。10世の死後に出生した息子のジャン1世も生後間もなく死去したことで、男子継承者が断絶した。
 そこで重臣らの間ではルイ10世の娘ジャンヌを初の女王として推す声があったが、ジャンヌは生母の不倫による子ではないかとの疑惑が存在したことから、ルイの弟フィリップがサリカ法を持ち出してジャンヌの王位継承を阻止、自らフィリップ5世として即位した。
 ちなみに、フランス王位を外されたジャンヌは父からスペインのナバラ王国の王位を継承し、夫のフェリペ3世とともに共治女王フアナ2世となった(夫の死後は単独女王)。バスク系のナバラ王国にはサリカ法典の制約は及ばなかったからである。
 次により大きな動乱のもととなったのは、フィリップ5世を継いでいた弟のシャルル4世が1328年に男子継承者なくして死去した時であった。シャルル4世には末弟がいたが、すでに早世しており、サリカ法典を厳格に適用する限り、カペー朝はいよいよ断絶するはずであった。
 しかし、シャルルの従弟がフィリップ6世として即位することでつなぎとめ、カペー朝分流のヴァロワ朝を改めて創始した。ところが、これに対してイングランド国王エドワード3世が異議を唱え、自らフランス王位を請求したことで、英仏百年戦争が勃発する。
 エドワードの生母はシャルル4世の姉イザベラであり、母系を通じてフィリップ4世の孫に当たることが王位請求の根拠であったが、これはサリカ法典上王位継承が認められない女系子孫であり、法律的には難があった。
 中世欧州の大戦争であった英仏百年戦争は、フランスに勝利をもたらす女性戦士ジャンヌ・ダルクという稀代の女傑を生むが、これについては後に別項で論じることにする。


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