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「女」の世界歴史(連載第14回)

2016-03-08 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

⑥奈良朝「女帝の時代」
 前回触れたように、日本の奈良朝時代は「女帝の時代」として、日本史上はもちろん、同時代の世界史上も稀有の一時期となっている。この時代は藤原京から平城京への遷都に始まるが、その当時の天皇が女帝の元明天皇であったから、まさに女帝の治世で始まっている。元明天皇は天智天皇を父に持ち、藤原京を完成させた持統天皇の異母妹にして息子の嫁でもあった。
 そのような血脈から、草壁皇子との間の子であった文武天皇が夭折した後を受けて即位した。皇后を経ず即位し、生涯非婚を通した最初の女帝であり、かつ前天皇の生母が即位した唯一の例でもある。しかも、元明天皇は715年、やはり草壁皇子との間の娘である元正天皇に譲位した。女帝が二代連続したのも皇位が母から子へ譲位されたのも唯一の事例であり、この時代の異例さがわかる。
 ここまで異例の皇位継承が続いた実際的な理由は、「本命」である文武天皇の遺児・首皇子〔おびとのみこ:後の聖武天皇〕がまだ年少であったこともあろうが、それ以上に持統天皇によって作り出された女権尊重の風潮が強かったことも考え合わせなければ、十分な説明はつかない。
 満を持して724年に即位した聖武天皇は久しぶりの男帝であったが、正妃光明子は藤原不比等と橘三千代の間の娘であり、彼女が史上初めて皇族以外から立后されるに当たっても母の三千代が何らかの関与をしたと思われ、二代の女帝時代から続く女性官僚三千代の権勢は皇后生母としてさらに増強されたと考えられる。
 熱心な仏教徒だった光明皇后は悲田院や施薬院の創設に代表されるように、国家による救貧・医療政策の先駆けとなる施策を主導したが、こうした民生重視の姿勢には史上初の人臣出身皇后としての視点も読み取れる。
 聖武天皇は病弱だったと言われ、在位中から政治的な野心が強かったらしい光明皇后の影響下にあったようである。聖武天皇と光明皇后の間には男児も生まれたが夭折したため、738年、長女の阿倍内親王を皇太子とした。これは史上最初にして唯一の女性皇太子である。この立太子には光明皇后の意向も強く働いたと見られ、ここにもまた女権の強い奈良朝の異例さが現われている。
 阿倍内親王は749年、聖武天皇の譲位を受け、即位する(孝謙天皇)。しかし、母の光明皇太后は皇后の家政機関であった皇后宮職を紫微中台と改称し、野心家の甥藤原仲麻呂を長官に抜擢して、天皇の後見人の立場で政治の実権を握った。
 この間、孝謙天皇は光明皇太后存命中の758年に天武天皇の孫に当たる大炊王〔おおいおう:淳仁天皇〕にいったん譲位し、上皇に退くが、女帝の時代はこれで終わらなかった。764年、孝謙上皇は淳仁天皇の下で専横していた仲麻呂を討ち、天皇を廃位・配流に追い込んだうえ、自ら天皇に復位したからである。
 こうして事実上のクーデターで重祚を果たした孝謙上皇改め称徳天皇の治世がさらに770年まで続く。この第二次治世は怪僧道鏡が天皇側近として権勢を持つ専制的な寵臣政治に陥り、有名な宇佐八幡宮神託事件をはじめとする政治的怪事件や皇族への粛清が続発する不穏な時期であった。
 しかし、生涯非婚で継嗣のない天皇が770年に病没すると、道鏡も下野薬師寺別当に左遷され、次代天皇は天智天皇の孫に当たる男帝の光仁天皇となった。これ以降、女帝は江戸時代初期の明正天皇に至るまで、実に859年もの間途絶する。

補説:女帝回避時代
 古代日本の「女帝の時代」は称徳天皇をもって終焉したが、この後も近代になるまで女性天皇は法制上否定されることはなかった。にもかかわらず、900年近くも女帝が回避された理由は定かでないが、称徳天皇の治世があまりに専制化・不穏化したため、「女帝では治まらない」という意識が朝廷に定着し、後世にも悪しき先例として参酌されたことがあるかもしれない。ちなみに称徳天皇と道鏡は愛人関係にあったという風説もあり、実際そう疑われても不思議はないほどの密着ぶりではあったが、確証はなく、これも後世、女帝回避の名分として創作された「醜聞」であった可能性がある。


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